二 大正十三年十二月 船場・平野町 狭柳家

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 次いで二度、三度。すっかり水を吐き出してしまうと、礼一郎の嘔吐は止まった。髪を乱してうつむき、四つん這いのままでいる。 「……遥ぼんか」  久しぶりに名前を呼ばれた嬉しさに、「そうだす、遥二郎だす」と兄の顔を覗きこもうとしたが、礼一郎は遥二郎から顔をそむけた。 「部屋ぃ……()ね。片付けは自分でやるよって」 「せやけど……」 「帰ね」  かすれた声にも鬼気迫るものがあり、言い返すことができなかった。そろそろと立ち上がり、 「礼一兄さん。次なんぞあったら、私に言うとくなはれな」  返事を期待したが、礼一郎は変わらない姿勢のまま、何も答えなかった。  襖を開け、自分の部屋に戻る。今さらながらに、冬とは思えぬほどの汗がどっと出てきた。  一・六夜店からの礼一郎の態度は確かにおかしかった。とはいえ、何かに悩んでいるだとか、面倒ごとに巻き込まれたとか、無理にでも現実的な説明をつけることはできた。  だが今夜見聞きしたことの、すべてが遥二郎の頭では理解ができない。礼一郎の部屋の女。襖の隙間から覗く、光る眼。礼一郎の吐いた水。  ――化け物。  そんな言葉が浮かび、遥二郎の心臓がどくりと大きく跳ねた。  ――礼一兄さんは、化け物に取っ憑かれてはる。    自分の手には負えない。どうしようもない。父も母も、信じてくれるはずがない。  へたりと畳の上に座りこみ、いつの間にか目尻に溜まっていた涙を拭った。  ただ呆然とうなだれていたとき、ふと、半年ほど前に学友から聞いた話を思い出した。 「ほんまかどうか、分からへんけどな」という前置きつきではあったが。  もし、学友の話が本当ならば。  この事態をなんとかできる人物が、この大阪にひとりだけいる。
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