一 大正十三年十二月 船場・平野町 一・六夜店

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一 大正十三年十二月 船場・平野町 一・六夜店

「礼一兄ちゃん、遥二兄ちゃん、早よしてぇなぁ」  すっかり準備を終えた多季(たき)が、待ちきれないというふうに門口の傍で地団駄を踏んだ。日の落ちた中で、草履の底がたんたんと土間を叩く音が聞こえてくる。  急かされている遥二郎(ようじろう)はしかし、多季のもとへ向かうどころか、表玄関に座り込んだまま、もう二、三分も自分の足首をごそごそといじっていた。 「何をしてるのやがな」  長兄の礼一郎(れいいちろう)が、後ろからゆったりとした歩調でやってきて呼びかけた。 「あ、礼一兄さん。新しう誂えた足袋がまだ足に慣れへんよって、外れたこはぜがかけ直されへんのです」  そう答えて、また足袋の爪のような金具を掛け糸に引っかけようとするが、上の金具だけがするりと掛け糸の外に滑り出る。 「それでずっとそこぃ座りこんでたんか。(どん)な子やな」  礼一郎は笑って遥二郎の足元に座りこみ、細い指で器用に遥二郎のこはぜを直してみせた。 「さ、早よ行こか。おひいさんがお待ちかねやぞ」  しきりに急かす妹に答えながら遥二郎は前庭の石畳を抜け、門口の近くで多季の手を繋いだ。    礼一郎も続こうとしたとき、父親の伊兵衛(いへえ)がその背中に声をかけた。店の帳場で算盤を弾いていたのを、今しがた終えたところらしい。 「なんや通りが騒がしいと思たら、今夜は一・六夜店か」 「へえ。多季がえらい楽しみにしてるもんでして」  伊兵衛は五十三という齢にしては皺の寄った目を細めて、からかい口調で返した。 「礼ぼんも楽しみにしてるのは同じやろう。今度は漫画カルタでも買うんか、それか鋳物のピストルかいな」  二十歳にもなって玩具集めをしているのを、伊兵衛はからかいこそすれ咎めはしない。礼一郎は苦笑して、 「遅うならんようにしますよって」  と話をそらした。 「行といで。多季と遥ぼん、頼むで」 「へえ。ほな行て参じます」  遅れてきた礼一郎を待ちかねていた多季は、長兄が傍へ来るなり玄関の格子戸をさっと開けた。
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