56人が本棚に入れています
本棚に追加
とたんに、暖簾と格子戸の並ぶいつもの平野町とはまったく違う別世界が、目の前に広がった。
いくつもぶら下がったアセチレンランプが行き交う人々の頬を橙色に染め上げ、夜店のかけ声、出し物の歌やバイオリンの音が耳を騒がせる。
アセチレンランプのガスの匂いと飴細工の甘い香り、うどん粉を焼いたちょぼ焼きの匂いが鼻をくすぐり、雑踏の熱気が一瞬十二月の寒さを忘れさせた。
歴史ある暖簾と、有り余る財をもつ大店の並ぶ「大阪のヘソ」、船場。平野町はそのほぼ北端に位置し、ふだんは目の肥えた旦那さんや御寮人さん(店の奥方)が買い物をする通りとして名を馳せていた。
一方、一と六のつく日に開かれる「平野町の一・六夜店」は子どもの大きな楽しみのひとつだった。
真夜中まで続く喧噪、道に敷かれた緋毛氈の上で男の繰り出す手品、食欲をそそる食べ物の匂い。まだ十一歳で、なかなか自由のない多季などは、いつも夜店が出る二日も三日も前から、指折り数えて待ちかねていた。
礼一郎は羽織の前をかき合わせて、ひとつ身震いした。
「えらい冷えるな。はあもうすぐ年明けや」
「わて、平気やもん」
夜店の熱に浮かされて、多季は遥二郎の手を引っ張って先ざき歩いていった。その後を見守るように、礼一郎が付かず離れず歩いていく。
「遥二兄ちゃん、わて飴細工見たいわぁ」
「またか。ほんま飽きひんな。こないだは五回も見とったやろう」
妹の飴細工好きに半ば呆れながら、遥二郎は兄の許可を求めて振り返った。礼一郎は口の端に父親似の笑みをたたえて、
「いつものことやがな、好きにさせてやり。私、ちょっと見たいもんがあるよって。多季の気が済んだら麒麟屋の前に来ぃ」
と答えた。舶来小間物を扱う麒麟屋の前には、目新しい玩具を扱う夜店がいつも陣取っているのを遥二郎も心得ている。多季を任されたつもりで、遥二郎は妹の手をぎゅっと握った。
「友達見つけても手ぇ離しなや」
「ふん」
無邪気にうなずく妹の手の温もりを感じながら、遥二郎は密かに気を張りつめていた。
――多季は私が見とらなあかんのや。もし多季になんぞあったら……
最初のコメントを投稿しよう!