二 大正十三年十二月 船場・平野町 狭柳家

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 礼一郎が医者になると言い、京都帝国大学へ進学したあたりから、ひさ子の対応はさらに冷たくなった。商売を手伝う気もない息子など、いても仕方がないのだ。  そんな中で次男の遥二郎がどういう扱いを受けているかといえば――いないも同じ。いずれ家を出るのは礼一郎と同じでも、長男ですらない余り物。  ――お母様(かあはん)の言う通りや。(わし)は余りもん。多季も守れんようやったら、この家に居場所なんてないんや。  暗い考えが、家に帰っても振り払えない。とぼとぼと縁側を戻り、自室のある二階への階段を登る。  三兄妹の部屋は中庭に沿って、東から礼一郎、遥二郎、多季と三間続いており、八畳・六畳・六畳の部屋は互いに襖で仕切られている。磨き上げられた板床の廊下を通り、自分の部屋に入りかけたところで、ふと兄の様子が気にかかった。あのあと兄は大学へ行ったのだろうか。昼餉(ひるげ)はちゃんと取ったのだろうか。 「礼一兄さん、お身体はどうでっか」  礼一郎の部屋に向けてそっと呼びかけたが、何の返事もない。もう一度繰り返したが、同じだった。  遥二郎は昨夜、一・六夜店で豹変した礼一郎の様子がどうしても引っかかっていた。あの晩、確かに兄に何かが起こったに違いない。部屋にいるのかどうか分からないが、いたら話をしてみたかった。  襖の引き手に指をかけ、そろそろと襖を開ける。中には誰も居らず、医学書や洋書の並ぶ本棚や文机、その脇にある小引き出しなどがあるだけだった。  座布団がへこんでいることからして、はばかりに立ったのだろうかと思ったとき、ふと、文机の上に何か置かれていることに気付いた。
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