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序
「死に切って嬉しそうなる顔二つ」
男はそうつぶやくと、懐から手拭を取り出した。
「なんですのん、その川柳」
「心中をうたった古川柳や。爺さんが昔教えてくれてな」
そう答えると、男は暗闇の中で苦々しい笑みを浮かべた。
「まさか自分が心中することになるやなんて、そのときは思いもせなんだ。ひとの行く先は分からんもんや」
川辺の風はぬるく、立っているだけで汗がじわりと滲む夜だった。女は視線をふと落とし、星々を映した黒い水面に向けて眉をひそめた。日本髪に挿した簪が、暗い中でもちらりと光る。
「どないした」
「なんや、こない星が出とると、ぎょうさんの目ぇに見られとるような気がしますよって」
女の背を撫でると、男はしゃがみ込んで、自分の左足首と女の右足首を手拭いで縛り付けた。
万が一にも、片方だけ生き残ることのないように。
「気が咎めるか」
そう言いながらも、男は手拭いの両端を強く引っ張った。
「いえ。わてが心配しとるのは、これから先のこと」
男が不審げに女を見上げた。女の灰白の単衣はぼうっと暗闇に浮かび上がって、死ぬ前からすでに幽霊じみていた。
「土左衛門て、ぶくぶくに膨れるて言いまっしゃろ。そないなる前に誰か見つけてくれるやろか、思うて」
すぐに答える代わりに、男は立ち上がって女の手を取った。川縁へ続く石段の水際に、小さな波が立っている。
「おまはんは死んでもきれえやと、私は思うで」
女は微かに笑い、男の耳に唇を添えて何かをつぶやいた。男がけげんな顔をする。
「なんや、今の」
童女のようないたずらっぽい笑みを浮かべたまま、女は答えた。
「さっきの川柳の、お返しでっせ」
それ以上は何も言わず、女は一歩、石段を降りた。
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