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そういえば。小学生の頃もう彼が空手をやめるって決まったときにこれまで散々お世話になったんだからこれを渡してきちんとお礼を言いなさい、と母から言い含められて小さなプレゼントっぽい包みを預けられたことがあった。
それをそのまま素直に道場からの帰り道ではい、これ。と言ってぽんと渡したら何故だか奥山くんが耳まで真っ赤になって黙り込んだことがあったな。何なんだ変なやつ。と思ってそれきり忘れていたが。
大きくなった今思い返すと、あれは今時分の季節、年明けの真冬だったような。…ちょっと待てやうちの母。もしかして、あれって。チョコレートだったのか!
言われてみればすぐにじゃなくてひと月くらい経った頃に、どうしてか学校の帰りに手招きされてこっそり可愛らしい包みのクッキーか何かをお返しにもらった記憶が。何ですぐにじゃなくてこんな時間経ってからなんだ?と不思議に思いながらも受け取って、あとはきれいさっぱり忘れていた。…そうか、あれは。ホワイトデーのお返しだったのか…。
いくらバレンタインデーのタイミングだったからと言って、何もあえてチョコ用意することなくないか。子ども同士とはいえ一応異性なんだし無駄に紛らわしいだけだろ。
普通にハンカチとか文房具とか、無難なもの用意しとけばいいのに…。まあ、わたし本人が気を利かせないから。こうやって思いもしない落とし穴に落ちて巻き添え食らうことになるってことか。
娘の男友達に対して勝手にいらん気遣いをした我が母親に今さら遅まきながら憤慨しつつも、わたしはそのエピソードを密かに胸の奥底にしまい込んだ。小学生の頃に不可抗力でうっかりバレンタインにチョコ渡し済みなんて。ここで余計なこと言ったらだりあから激烈な反応が返ってきそうで怖い。
それに。小三のときとは違う。中二の今、義理とかこれまでのお礼とか言い訳つけてもチョコ渡したらもうそういう意味になっちゃうし。
てかそう受け取られても文句言えない。だからここで下手にだりあに乗せられて、チロルチョコ一個くらいいっか。とか抵抗するのが面倒くさくなって結果流されたりはしないぞ。
「…わたしは。誰にもチョコとか渡す気はない。義理とかも必要性を感じないし。誰かにお世話になった感謝とか伝えたくなったら、別のタイミングで違うものを用意するよ。だから当たり前だけどいつも通りバレンタインはスルー」
「えぇぇー、でも。…奥山くんは絶対喜ぶよ。うゆちゃんからチョコとかもらえたら」
何故かだりあは諦め悪くさらにその提案を推してきた。
ずい、と椅子ごと身体を前に進めてきて下からわたしの顔を覗き込む。近い。
「うゆちゃん、特に好きな男子とかいないんでしょ。だったら別に、彼にチョコくらいあげても誰に誤解されて困るもないし。奥山くんは幸せな気持ちになれて中学時代の素敵な思い出としてずっと残せるし、いいことしかなくない?うゆちゃんだって。…えーと、少女漫画っぽい何だか青春!って気分が味わえてさ」
わたしにとってのメリットをどうしても咄嗟に思いつけなかったみたいで、あやふやな声で中途半端なことを口にしたのが何だかおかしくて片頬でうっかりちょっと、笑ってしまった。
「わたしは中学生らしい青春とか。正直したいと思ったことがないから、それは別にいいよ。てか、他人の世話ばっか焼いてないでさ。自分が渡せば?奥山くんにでも誰にでも、ちゃんと納得いく相手に」
まさか自分の方にお鉢が回ってくると予想もしてなかったらしく、だりあは目に見えてぎく、と動揺を見せた。
「え?…あたしは。別に、特に好きな子なんて」
そこから否定すんのか。今さらごちゃごちゃした言い合いをしたいとは思わない。わたしはため息をつき、デリケートさのかけらもない直球な言い回しでずばっと伝えた。
「奥山くんのことを好きかどうかは訊かない。別にわたしが知るべきとも思わない、そっちの超個人的な感情の話だし。でも、相手が誰かはともかくチョコをバレンタインに贈りたい気持ちがあるなら。そこは素直になればいいんじゃないの。中学生活はあと一年ちょっとだし、卒業してから後悔しなきゃいいけど。と思っただけ」
何でわたしがこの子の背中を押してやらなきゃいけないんだ、それってわたしの役目なのか。とは思わなくはなかった。
だけど木村だりあが何かにつけてやたらと奥山くんをこっちに押しつけようとしてくるのは、本当にわたしと彼が付き合えばいいと心の底から願ってるから。ってわけでもないだろう。
多分、自信こそないけど。この子なりにどうしてか奥山くんのことが気になって仕方ないし、結局好きなんだろうな。だけど突撃するほどの勇気がないから、何かにつけてわたしの前で彼の話題を持ち出して突いたり反応を見たりして。少しでも彼について一緒に話したり考えさせたりしたいってだけの理由な気がする。
わたしが奥山くんのことを好きなんだろうと本気で信じてはいないようだ。むしろだからこそ、安心してその名前で注意を惹いたりできるんじゃないかな。彼女に背中を押されることで結果二人が両思いになる、とかまでは想定してないように思える。
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