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“あの女ほど強い奴はいない。あの女を目の前にすれば、誰もが螺旋に巻き込まれたと錯覚するだろう” 大理石で造られた円形闘技場――ティンダーボックスの試合場で、一人の女が立っていた。 露出の多い布地をまとった全身傷だらけの女だ。 民衆から大歓声を受ける女の手には、短い両刃の剣が握られている。 目の前には、その鋭い牙をむき出しにしたライオンが一匹。 何日も餌を与えられていないのだろう。 空腹を満たすために今にも飛びかからん勢いで吠えている。 「いけ、スピラ!」 「今日も期待してるぞ!」 スピラと呼ばれた女剣闘士は、観客の声など聞こえないといった様子で猛獣から距離をとった。 その行動に客席からは一斉に批難の声が飛んだが、彼女が動じることはない。 間隔を開いたスピラは、ゆっくりとすり足で砂埃を立て、その姿を消していく。 猛獣の目をくらませる作戦か。 だが、獣は鼻が利く。 たとえ姿が見えなかろうが、獲物の位置は把握できる。 「ガルゥゥゥ」 そして次の瞬間――。 舞う砂埃に顔をしかめながらも、ライオンはスピラへと飛びかかった。 体長は約三メートル、体重はおよそ三百キロはあるかという巨体だ。 そんな大きさの獅子に噛みつかれようものなら、たとえどんなに屈強な者でも身体を食い千切られる。 ライオンが砂埃へと飛び込んだとき、凄まじい打撃音と共に風が吹いて闘技場内が晴れた。 そこには、倒れている獅子と、兜を外したスピラが立っている光景があった。 剣で牙を斬りつけたのだろう。 グッタリとしているライオンの側には、犬歯が四本転がっている。 「勝者、スピラ」 審判が声をあげ、民衆からは大歓声が沸き起こった。 誰もが身を乗り出しながら叫ぶように声をあげ、見事に猛獣を仕留めた女剣闘士を称えている。 「やりやがったあの女!」 「今日もまた記録を更新しやがったぞ!」 スピアは歓声に応えるように、その長く束ねた黒髪を振り回す。 そして、王が座る直射日光が当たらない観覧席に向かって手を掲げた。 手のひらを下に向け、腕と指を完全に伸ばして前方を向く姿勢――敬礼だ。 それは、かつて彼女が恩人から教わった動作だった。 この円形闘技場――ティンダーボックスでは、対戦相手の命を奪う必要はないという意味もある。 スピアは人間ならまだしも、自分を食い殺そうとしていた猛獣までも助けたいと、王に慈悲を乞うたのだ。 「出たぞ! いつものやつだ!」 「これで不殺のほうも更新だぜ! スピラめ、相変わらず魅せてくれる!」 スピラの敬礼に、観客席からはさらに歓声が上がる。 芝居で定番の台詞を聞いたかのように、これが観たかったと言わんばかりの大興奮だ。 そんな歓声の中、手を掲げるスピラに王の側近が声をかける。 「王はおまえの願いを聞き入れた。今日からその獣はおまえの物だ」 返事を聞いたスピラは、倒れているライオンの前足を掴むと、そのまま引きずって闘技場を去っていった。 再び礼をすることなく、観客に手を振ることもなく、ただ何もせずに入場してきた門を出ていく。 彼女に本名はない。 だが幼い頃に父が盗みで捕まり、その手伝いをしたという理由で剣奴にされた彼女のことを、いつからか観客たちがスピラと呼ぶようになっていた。 闘技場内から出たスピラは、自分の檻に戻ると、呻いているライオンを優しく擦る。 「悪かったな。でも、こうでもしないと食われちまうからよ」 女性らしからぬ荒い口調で声をかけ、彼女は微笑んだ。 ライオンはこの者には敵わないと理解したのだろう。 まるで人懐っこい犬や猫のようにじゃれつき、すっかり懐いていた。 スピラは獅子に笑顔を向けながら思う。 こいつも長生きできないだろうなと。 スピラはこれまでも多くの猛獣と闘わされた。 そのすべてを先ほどのように救い、こうやって飼っていた。 だが、これまで助けた動物は皆すぐに死んでしまった。 闘技場に出されるような猛獣だ。 奴隷と同じ扱い――いや、獣だけにそれ以下の扱いをされていたのだろう。 餌もあまり食べなくなり、次第に衰弱して動かなくなってしまう。 「出ろ、大臣のお呼びだ」 スピラがライオンを撫でていると、突然檻が開いた。 そこに立っていた衛兵が、無感情な声を出して彼女に早く出るように促す。 「ちょっと行ってくる。すぐに戻るから心配するな……。なあ、こいつに餌をやってくれ。あたしを食い損ねて腹を空かせてるんだ」 スピラは、ライオンに笑みを向けてから衛兵らへそう言うと、大臣の使いの後をついて行った。 去っていく彼女の背中を見ながら、衛兵たちが話し始める。 「本当に勝ちやがったな。話だけは聞いていたが、まさか猛獣を倒しちまうなんて……。しかも、女が……」 「もう人間じゃ相手にならないものだから、百勝した後からは対戦相手はすべて猛獣になったんだよ。それでもあの女のやることは変わらないがな。ただ相手を倒して王に慈悲を乞う。それだけをもう十年は繰り返している」 「十年って……あの女、ガキの頃からあんな強かったのか!?」 そんなはずないだろう。 衛兵たちの会話が聞こえていたスピラは、内心で答えていた。 最初から強い者などいない。 これまで何度も死にかけた。 闘技場で戦わされた初めの頃は、同世代の少女たちだった。 その頃はまったく余裕などなく、頭を打たれて気を失い、何日も高熱を出したこともある。 だが、スピラは生き残った。 己を磨き、頭を使い、同性から男を相手にする頃には、もはや剣奴では彼女の相手は務まらなくなっていた。 そこでこの国――ロマリス帝国の衛士たちから腕に自信のある者らを集め、余興にとスピラとぶつけたが、彼女はそれら強者らをすべて返り討ちにした。 そのことがきっかけで、この国でスピラの名を知らぬ者はいなくなった。 「失礼します。いわれていた剣奴をお連れしました」 大臣の使いは部屋の前で立ち止まると、静かながらよく通る声でそう言った。
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