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彼女は、文字がたくさん並んだ契約書をテーブルに置いた。彼女がペンの先で指した条項にこうある。
契約成立後、支払い方法の変更を可能とする。変更を希望するものは、契約時点の代価の二倍を手数料として支払うこととする。
つまり、途中で変更したら、実質支払いが三倍になるということだ。
「契約の取り消しの場合も同様ですので、ご注意ください」
そうなると、現金で支払うことも考えた方がいいだろうか。しかし、四百八十万円はフリーターの身には重すぎる。寿命にしても、記憶にしても、妹のことを考えると今すぐに決められることではないし。そうなると、労働しか選択肢が無くなってしまうのだ。
「お決めになられましたか? 一度じっくり考えられてからでも問題ありませんが」
ここで決めれば、妹の体をすぐにでも治してあげられるのだ。わたしは持ち帰るつもりは無かった。わたしの悩みなど、あの子に比べれば些細なことなのだから。
「いえ、労働で支払わせてください」
「本当によろしいんですね?」
彼女の顔から初めて笑顔が消えた。その瞳はわたしを見据え、わたしの心の中に迷いがないかを確かめているようだった。
「はい。妹の為に寿命や記憶を失ったら、きっと本人に責められます。かといって、わたしにはすぐにお金も用意できませんから」
「かしこまりました。ではこちらの契約書にサインを頂きます。内容をよくお読みになってください」
わたしは細かく書かれた契約書の内容を読んだ。大筋は、彼女が説明してくれた通り。ペンを取って名前の欄に署名する。支払い方法の欄の『時間』に丸を付け、『労働』と直接書き込む。彼女に渡すと、署名を確認してから彼女もサインをした。『魔導師協会日本支部長 夢名ミコト』と読める。
「これで契約完了となります。それでは、魔法の伝授に移りますので、契約の間へご案内します」
この店には奥に簡素なキッチンがあるくらいで、他に部屋があるようには見えなかった。彼女はわたしのそばに立つと、人差し指を天井に向けて大きく円を描いた。その軌跡をなぞるように光の輪が現れ、わたしたち二人を囲むほどの大きさに広がった。光の輪はゆっくりと頭上から下降を始め、足元まで下りきったところで消えた。わたしが顔を上げると、いつの間にか、祭壇のある小部屋に立っていた。
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