epilogue

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◆ 「…え、もしもし?」 "あー、もしもし?今大丈夫だった?" 「うん。電車おりて歩いてるところ。どうしたの、この時間は珍しい」 "まあ、まだ今から残業だけど。ちょっとその前に芦野さんの声を聞いておこうかなと思って" 「……へえ」 "あのさ。へえ、って何?" スーパーに寄ろうかと、最寄駅から帰り道をぶらぶら歩いているとスマホが知らせた着信の相手にびっくりしてしまった。 ──壱が会いに来てくれてから数週間。私たちは自分の無理はしない程度に、でも相手のことを考えて怖がりすぎないように。もう少し自由に連絡を取り合うことを決めた。 それから、こうしてたまにサプライズのように壱から電話が来ると嬉しい。あまり素直に反応できず「へえ」とか言ってしまったけれど。 多分お見通しの男が笑いを含んだ声で「今日もお疲れ」と労ってくれる。へらりと顔を緩ませて受け止めながら「今日はちょっと、本当に頑張った」と言った。 "なに?なんか難しい仕事?" 「ううん。今日人事の人と面談で」 "あー、なるほど" 「宣言をしてきた」 ──七夕の夜。6年前のあの日の恋の始まりは、どこか美しくて幻想的にも思えた。 どうしてもこの恋を守りたくて、必死にいつまでも昔の輝きに縋りついた。 ねえ、織姫様。でも私は、貴女のように一年に一度の逢瀬なんて、慎ましく彦星様を待ってはいられない。 "宣言?" 「いつか東京を離れることがあっても、今の仕事を出来れば続けたいって。どこに行っても働けるリモートワークを許可して欲しいって」 "……え…?" 戸惑う壱の声を聞きながら空を見上げれば、すっかり日は暮れている。でもコンビニやスーパー、駅前の明るい照明が夜を容赦なく照らすから、都会ではやっぱり、簡単に星には出会えない。 「…壱はいつか東京に戻るために頑張ってくれてるけど。私だって、頑張るから。もし壱が左遷されても、私、どこでも会いに行く。その準備してる」 "……不吉なこと言うな" ぶっきらぼうな声は、何か感情が迫り上がるのを抑えているように思えた。決して怒っているわけではないと分かる。その証拠に「顔見たいからテレビ電話にして」とお願いしたのに、直ぐに却下された。 "お前ね、" 「私、ヘタレ壱より男前だから」 "先に言うな" いつもの流れを察して告げると即座に突っ込みを受ける。ふふ、と声を出して笑えば電話越しに壱も笑っていると分かった。 「そろそろ切らないとだよね。壱、仕事がんばってね」 "奈憂" 「…ん?」 "お前のこと、どう思ってるかについてなんですけど" 「うん?」 "──多分普通に、愛してるに近い" 「…え、」 上手く口を挟む隙も与えてもらえなかった。気づいたら電話は切られてしまっていて、帰り道の途中でポツンと一人取り残されたような気持ちになる。 「……何、いまの」 じわじわと今受けた言葉を反芻すると、どうしても笑顔を抑えられない。 "5文字だけ"で、ヘタレなあの男が直接私に言えるようになる日は、これから来るのだろうか。 流石に私もこの言葉を素面で伝えるのはそこそこハードルが高いけど。 また私に先を越されてバツが悪そうにする壱を見たい気もするから、次に会う時までにちゃんと練習しておこうと心に決めた。
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