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「……いいよ。どこ行きたい?」 先生の手を引っ張って、私は足を進めていく。 「向こうに川があるの。私のお気に入りの場所なんだ」 ここから数分歩いた先にある浅川は、お父さんと澪さんと春になるとよく行った。 今の季節は桜は咲いていないけれど、それでもあの場所をもう一度目に焼き付けたい。 草が生茂る道を下って浅瀬に着くと、私たち以外に人はいなかった。 水面に夕日が反射して光って見える景色は、春の情景とはまた違った美しさがあった。 「見てて、せんせい!」 私はせんせいの手を離して、足元にあった小石を手に取ってそのまま投げる。 ぴちゃぴちゃと音を鳴らして、小石が数回跳ねていく。 「すごいでしょ!」 「よくあんなに跳ねるな」 続いて先生もやってみるけれど、すぐに沈んでしまう。 「せんせい、へたくそ!」 声に出して笑うと、先生が一瞬目を見開いた。 「え、なに? どうかした?」 子どもっぽいと思われただろうか。ただでさえ年下で、子ども扱いされているのに。 「……いや、そんな思いっきり笑うの初めて見たなと思って」 「たしかに、最近あんまり笑わないかも」 「じゃあ、水原の笑顔が見れてラッキーだな」 「なに言ってんの」 そうやってからかうようなこと言わないほしい。 頬が熱いのは夕日のせいだと思いたい。どうか頬が赤くなっていませんように。 「本気で言ってるけど」 先生の手が私の頬に伸びてくる。熱が伝わってしまう。焦ったけれど振り払うこともできず。咄嗟に目を逸らしてしまう。 「頬熱い」 「……うるさい」 「水原、こっち見て」 優しい声音に従って視線をゆっくりと上げる。 先生の眼差しに、自分と似た感情があるような錯覚を起こす。 ——だめだ。 空気がいつもと違う。このままだと飲まれてしまう。 好きになっちゃいけない。先生はきっと私に本気になんてなってくれないから。 それなら早く言わなくちゃ。 ……取り返しがつかなくなる前に。 頬にある先生の手に、自分の手を重ねると握り締められた。 そんな些細な動作にさえ、私の鼓動は高まっていく。 「ねえ、せんせい」 ぎゅっと手を握り返し、一呼吸置いてからはっきりとした声で伝える。 「別れよ」
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