第1話 京子

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第1話 京子

 フリーライターの尾田切(おだぎり)琢磨(たくま)は、現場近くの公園の木陰で煙草を吸っていた。  一帯は、規模は小さいが高台に開発された、高級な部類に入るであろう閑静な住宅街だ。尾田切がいる公園は、その北の端に位置する。ここから2ブロック南、東西に3軒並んで建つ真ん中の住宅が殺人現場だった。  両隣の家も含めて前面道路の両端に規制線が張られているので、現場となった住宅には近づけない。警察関係者や報道関係者、野次馬も集まっており、住人はさぞかし迷惑なことだろう。もっとも、彼らが一番懸念しているのが、自宅の資産価値の毀損であることは間違いない。  尾田切は、新聞記者時代に小さな文芸賞のノンフィクション部門で佳作を取ってフリーのライターになったものの、その後は鳴かず飛ばず。今ではアパレル雑誌の編集長を任されている妻の方が収入が多く、肩身の狭い思いをしている。妻は文句ひとつ言ってこないので、他人から見れば良い女房なのかもしれないが、それがかえって尾田切の神経に(さわ)る。本心では自分のことを見下しているのではないか。(あわ)れんでいるのではないか。そう思えてならない。  ふと見ると、公園の入り口付近に設置されている自動販売機の前に見覚えのあるうしろ姿があった。顔見知りの記者、佐井東(さいとう)だ。まだ若いが仕事熱心で真面目な男だ。尾田切が自分の吐き出した煙越しに眺めていると、ずっと何も買わずに逡巡している。黙って近づき、硬貨の投入口に100円玉を2枚入れてやると、佐井東は驚いた様子で振り向いた。 「尾田切さん」 「100円そこそこの飲み物で随分悩んでるみたいだったからな。このくらいおごってやるよ」 「お恥ずかしい。どうも優柔不断が治らないもんで。食事に行ったときのメニューなんかもなかなか決められなくて、彼女とよくケンカになるんですよ」 「この程度のことならどれを選んでも大差ない。レストランのメニューもそうだ。もっと気楽に構えろよ」 「分かってはいるんですけどね。すみません、いただきます」  佐井東はそこからまた5秒ほど考えたあとで、エナジードリンクのボタンを押した。   二人で木陰まで移動する。 「尾田切さん、そんなところで煙草吸ってたら住民から苦情がきますよ」 「このくそ暑いのに公園で遊ぶガキもいないだろ。みんな冷房の効いた部屋の中でゲームに夢中だ。煙草くらいでがたがた言うなよ」 「近隣住人の反感を買うと取材がやりにくくなんるですよ。せめてポイ捨てはしないでくださいよ」  言われてなくても分かっている。 「そんなことより情報交換しようぜ。所轄やその近隣住人とやらにも話を聞いたんだろ?」  交換と言いつつ、尾田切から提供できる情報で佐井東が知らないものなどないことは分かっていた。 「特に目新しい話はないですよ」  男女二人の他殺体。男は浴室、女はリビングで倒れていた。二人とも全裸だったという。 「遺体はかなり無残な状況だったらしいな」 「二人とも顔半分の損傷が酷くて、知り合いの刑事も見てられないって言ってましたね」 「殺された二人が夫婦じゃないってのは確かなんだろう?」 「間違いないみたいですよ。男の方は現場の家の主人、町田義文(まちだよしふみ)だそうですが、女は妻の梗子(きょうこ)じゃない。女の身元の確定はこれからということになってますけど、警察はもう掴んでいるかもしれません。あの家は子どももおらず、夫婦の二人暮らしだったみたいですから、少なくとも女はあの家の住人ではないってことになります」 「旦那の浮気相手か」 「自宅に連れ込むなんて、そんな大胆なことをするかなとは思いますけどね。二人とも全裸だったみたいですし、その線が濃厚でしょうね。ただ、わたしが話を聞いた限りでは、奥さん以外の女性が出入りするのを見たって人は見つかりませんでした」 「その梗子って嫁さんの居どころはまだ不明なんだろ?」 「そう聞いてます」  男女の全裸死体があって、男の方はその家の主人だが女は妻ではない。現時点で妻、梗子の所在は不明。遺体の状況から他殺であることは間違いない。 「単純に考えるなら、女房が旦那と浮気相手の女を殺して逃亡中ってことか――。それにしては何か違和感が残るがな」  凶器の特定はまだのようだが、遺体の損傷が激しいということから、女の力でそこまでできるのかという疑問もあった。 「単純な事件かもしれませんよ。殺人の動機なんて大したバリエーションはないですからね。大抵は金か、愛情のもつれか、そのどちらかでしょう」 「女房の方の実家の町田商事って会社、地元じゃそこそこ名の売れた企業らしいな」 「近所の人の話だと、殺された旦那は婿養子で、次期社長含みの副社長だったようです」 「婿養子ね。浮気の一つもしたくなるような立場だな」 「それは偏見でしょう。逆玉、美味しそうじゃないですか。俺ならその立場を危うくするようなことはしませんけどね」 「真面目かよ」 「真面目ですよ」  二人して笑ったあと、少しの沈黙を煙草とエナジードリンクで埋めた。 「尾田切さんは何か情報ないんですか?」 「おまえと同じ程度だよ」  佐井東も尾田切が情報など持っていないことなど承知の上で言っている。昔、世話になったデスクに頼まれてヘルプで取材に出張(でば)って来ている尾田切は、どうにもやる気が出ず、まだろくに取材もできていない状況だった。 「そうですか。何か掴んだら教えてくださいよ」 「分かってるって。それより他に何かないのかよ」 「強いて言えば、ちょっと気になるのは庭ですかね」 「庭?」 「ええ。近所の住人の話だけで未確認なんですけど、現場の家の庭の花壇が荒らされていたように見えたって。まあ事件とは無関係かもしれませんけど」 「庭が?」  その話は初耳だった。 「警察は何か言ってたか?」 「庭に関してはまだ何も。規制線の手前からじゃ見えないですしねぇ」  遺体はリビングと浴室にあったと聞いている。殺害現場も同じという見立てのようだった。庭は関係なさそうに思える。    だが、何か引っかかるものがあった。  何とか自分の目で庭を確認する術はないものか――。尾田切は煙を吐きながら、考えた。
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