雲間を裂く夕日では、ここまで届かない

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雲間を裂く夕日では、ここまで届かない

 およそ似つかわしくない光景に見えた。  小学生、いっててせいぜい中学校入りたてくらいの子どもが(ひたい)から血を流して駆け込んでくるのも、そんな子に向かって大の大人が自分の子どもらしき幼子にも石を持たせて揃って投げつけてくるなんて。 「この■■■!!」  聞こえてきたのは、子どもに浴びせるにはあまりに不相応な罵倒の言葉。物語のなかでしか聞かないような言葉選びにも耳を疑ったが、何より焼き付くのは、それを言っている母親らしき女性のなんとも憎悪に満ちた眼差しだった。  あぁ、こんな場面を昔何かで見たことあったような気がするな――そう思った一瞬のことだった。  更に投げつけられる石が当たるよりも早く、僕は少女の手をとってその場を離れていた。追いかけてくる声が恐ろしくて、想像以上にもたつく少女の足取りが苛立たしくて、それでも肺の空気が針に変わりでもしたように痛みだすまで、ただ走った。  人で賑わう寺院の横を、車の行き交う交差点を、焼き肉の匂いの充満する裏路地を、何らかの商社ビルらしきものの立ち並ぶ大通りを、ひたすら駆け抜ける。そうするうちに後ろには誰もいなくなっており、夏らしく蒸し暑い昼の装いだったはずの空は、すっかり雲に覆われて赤みを帯びていた。時間を見ると、もうとっくに戻るつもりだった時間は過ぎていて、ひとコマサボるだけのつもりが3つになってしまっていた。  今から戻れば3つ目は遅刻で済ませられるかも知れないけど……いや、ほぼ終わりという時間に戻ってもなぁ。気が抜けた途端一気に疲れとかが押し寄せてきて、膝が震えてくる。そんな僕を見ながら「大丈夫ですか?」と尋ねてくる少女に、僕はただ頷くしかできない。彼女の向けてくる眼差しの意味がわからず怯えさえしていた僕の耳に届いたのは、吐息混じりの微かな声。 「助けてくださってありがとうございます。なんて言ったらいいか……わからない、です」  鈴を転がすような――そんな形容の似合う声だった。さっきまでは余裕がなくて気にしていなかったけど、伏し目がちに感謝の言葉を述べる彼女の、そのほっそりとした腕や白い肌、血で汚れているけど可憐な少女という概念をこれでもかと詰め込んだような顔立ち、それに今にも風か何かにさらわれて消えてしまいそうな儚げな雰囲気が、妙に心を騒がせた。  住宅街のなかにいきなりぽつんとある小高い丘の上の、辛うじて遊具と呼んでいいものが1、2個ぽつんと置かれただけの、公園と呼んでいいのかわからない遊び場。そこでへたれ込む大人と、それを見下ろす小柄な少女。それはいったい、見るものにどのような印象を与えるのだろうか――俯瞰ともいえない、ただの被害妄想じみた考えだけが悶々と膨らんでいくのがわかったけど、過ぎたことをいくら悔やんでも悔やんだところでもう時間は戻らないし、こうなったら少しでも後に残る被害が少なく済む選択をした方がいいだろうとも思った。  だから、だと思う。  そこまでは僕の自発的な意思だったはずだ。  僕は上がってしまった息をどうにか整えて、彼女に切り出した。 「ご、ごめんね、ずいぶん遠くまで連れてきちゃった気がする。えっと……あ、そうだ、おうちの人と連絡つくかな? あと、えっと何だろ、け、警察? っていうかなんであんなことされてたの? あ、あー……」  どうしよう、何から尋ねるべきなんだろう。  まごついていると、女の子は「ふぅ……」と大きく息をつきながら僕のことを上目遣いに覗き込んできた。どこまでも深く澄んだ、とても綺麗な黒目に吸い込まれそうだ。  そして、小さな声で僕の耳に囁きかけてくる。 「助けてくださってありがとうございました。お礼させてくれませんか?」 「え、いやいいよ」  そう言えていたか、わからない。  囁き終わるや否や、彼女のひんやりした手が僕のシャツの中に滑り込んできていた。 
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