1/2
前へ
/10ページ
次へ

 店の鍵を手に引き戸を勢いよく開ける。誰かが追ってくる前にその扉をぴしゃりと閉めると、早足に歩き始める。  夜風が、少し冷たかった。無音の街に、草履が砂利を踏む音が一際大きく響く。立ち並ぶ家々の前に置かれている蚊取り線香の煙を吸って、軽くむせた。  下を向くと、目の前にあるのは大小様々な石。何の色もない。  酒屋の角を曲がり、一本道を駆け抜ける。提灯を掲げている商店の前で止まり、裏口にまわって勝手口の扉に鍵を差し込む。ずっと手で握っていた金属の鍵は、手の熱が伝わって生温かった。  勝手口を開けると内側から鍵を閉め、廊下を歩き始める。  築三十年になる店の廊下は、一歩踏み出す度ギシッと嫌な音を立てた。それでも構わずに歩を進める。  襖の前で立ち止まってそれを開けると、さっきの鍵と同じように生暖かく、蒸し暑い湿気が流れ込んできた。  三畳ほどの、自分が座る場所しかないほど狭い空間に置かれている座布団に腰を落ち着ける。前髪をどけ、汗の滲んだ額に触れると、じっとりとした感触が伝わってきた。それが気持ち悪くて、着物の袖で汗を拭く。  目を覆った袖をそっと除けると、視界に夜空が飛び込んできた。  夏の夜空は、濃紺一色の中にぽつぽつと銀色の輝きを持つ星屑が散りばめられていて美しい。そう思っているはずなのに、何故か涙が出た。目尻から零れ落ち、着物を濡らす。  たった一粒だけなのに、涙が落ちたところはいやに冷たく感じられた。  どうしても、思ってしまう。  ここに、あの手があったら。温かくて大きい、少女の体を覆っている氷の衣を溶かすような優しい手が、今現れて少女の肩に触れたなら。  息を吸い、きつく目を閉じる。真っ暗な闇の中を数秒漂った後また瞼を上げる。  果てしない、終わりのない空を見ながら、帝都はどっちだろう、とぼんやり考えた。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加