1/3
前へ
/10ページ
次へ

 少女が幼き日の夏の夜、目が覚めたら、隣の部屋で寝ているはずの彼の姿がなかったことがあった。  どこにいるんだろう、と探し回っていたとき、玄関の戸が開いて、彼が帰ってきたのだ。  起きている少女を見ると、彼は驚いたように軽く目を見張る。少女はその腕の中に飛び込んだ。 「どこに行ってたの。怖かった。一人にされて」 「怖くない、大丈夫だ」  彼の腕の中は温かくて、とても安心する。柔らかい声と優しく頭を撫でてくれる手に、かつて、どれだけ安心しただろう。  堪えていた涙が頬を伝ってぽろぽろと流れ出すと、彼は驚いたように少女を覗き込む。 「どうした、なぜ泣く」  嬉しくて。それから、ほっとして。心の中でそう答えるけれど、しゃくりあげているせいでうまく言葉にならない。 「そんなに怖かったのか」 「うん……」 「……すまなかった。やはり、一人で残しておくのはいけなかったな。今度行くときは、お前も連れていく」 「いいの?」  置いてきぼりにされることが怖かった少女は、彼の言葉に顔を輝かせる。彼は慈しむように穏やかに微笑して言った。 「ああ、いいさ。  だが、恐ろしい光景も見よう。それでも本当についてくるのか?」 「うん。行きたい。行かせて」 「……わかった」  その言葉に少女が笑うと、彼も笑った。  彼は、「家に入ろう」と言って少女を抱えたまま歩いていく。この人なら大丈夫だ、と安心しながら、少女は彼に身を任せた。  彼が出歩く日が鬼の出る日と同じだと知ったのは、はじめて彼についていったときだった。 「ねえ、外に出ていいの?」 「ああ」 「今日は鬼が出るって」 「構わん」 「……なんで?」  無垢な表情で尋ねた少女に、彼は何も教えず、怖いのならばついてこいとしか言わない。彼は、それ以上の追及を諦めて歩き始めた少女を満足そうに見、そのあとそっと抱き上げた。  自分で歩けるのに、と不思議な気持ちで彼を見上げると、今度はきちんと話してくれる。 「私の速さに、お前はたぶんついていけないからな」 「どうして? いつもみたいに、私に合わせてくれないの?」 「まあ見ていろ」  そう言って勝気な笑みを浮かべ、彼は正面を見据えた。その数秒後には。  周りの景色が、見たこともないほどの速さで動いていた。しばらくして、風を切る音に、高速移動をしているのだと気が付く。ああ、これはついていけないな、と素直に感じた。  それと同時に、やっぱり、と確信を持つ。  少女は子供ながらになんとなくわかっていた。家にあるもの、彼の受け答えや、態度。それらを見て判断し、そしてある予想を立てた。 「やっぱり……」  前だけを見てあり得ないような速さで走り続けていた彼は、少女の声に手元を見る。なんだ、と静かに尋ねた。  幼い少女は、思いとどまることもなく思ったことを口にする。 「やっぱり、あなたが鬼なの?」  親に捨てられた少女が見ず知らずの彼に拾われて、共に暮らし始めてから、もう二年経っていた。さすがに、彼のことに関しても少しはわかる。  彼は軽く目を見張ったあと、徐々に速度を落としてついに足を止めた。少女を下ろし、しゃがんで視線を合わせる。いつもは優しく細められる瞳の中に、今は鋭さと切実さが宿っていた。 「少し、話を聞いてほしい」
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加