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 雨が降ってきた。気まぐれのように足を止め、雨を含んで湿った髪をかき上げる。  結局片付かなかったか、とため息が出た。それもそのはず、夏の夜は短い。いくら彼の俊足をもってしても、それぞれ離れた多くの土地を一夜のうちにまわるのは無理がある。  彼が訪れたのは、一軒の店の近くだった。静まり返った夜の街に、一つだけ提灯を掲げている。本当は、今日中にすべての仕事が片付いたら、来るつもりだった。  人伝に聞いただけの場所だったが、果たして、会いたかった彼女はそこにいた。  カウンターで、少女が転寝をしている。その寝顔が懐かしかった。  しばらく迷った後、彼は手を打つ。パン、という小気味良い音が響いた。あたりの時間を止める術だ。力が強大すぎるため、そう長くはもたない。そもそも、私用で使っていい術ですらない。それでも、どうしても。  カウンターに近づき、寝ている少女の手に触れる。今にも折れてしまいそうにか細かった腕は、今では多少肉付きがよくなったように感じる。  そのあと、彼女の体をそっと抱き起し、優しく抱きしめた。時が止まっているから、当然彼女は動かない。このことだって覚えてはいないし、彼の声も届かない。そうと知っていても尚、口が動いた。 「すまない。本当は今日迎えに行こうと思っていたのだが、できなかった。……来年の夏には、きっとこの役目を終えて、私は一人の人間としてお前の前に立てるだろうから。それまで、待っていてくれるか」 「うん」  そう言う声が聞こえた気がして、彼は思わず、少女の顔を見る。けれど、当然、眠ったままだ。過去の声が頭の中でしたのだろうか。前にも彼女に同じことを聞いて、答えてもらった時の声が。  彼女の顔が、空に浮かぶ月のように満ち足りているように見えた。気のせいかもしれないが、先ほどまでよりも柔和な顔つきになっている。  その口が、微かに動いた。動かないはずなのに動いたのは、あふれんばかりの強い気持ちからなのだろう、と知れる。 「ずっと待ってるから、必ず、迎えに来てね」  泣き出しそうになった。彼女の優しさを、思い知らされたような気分だ。  忘れないでいてくれた。待っていてくれた。ほっと、全身から力が抜けていく。  彼女の、最後に見た時よりもいくらか大きくなった体をもう一度抱きしめる。彼女はきっとおぼえてはいないけれど、それも承知の上で、彼女の唇に自分の唇を重ねる。 「必ず迎えに来るから、待っていろ」
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