話者

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 * * *  わたしは幼い頃、書物で読んだ海に憧れていた。森に囲まれた城下に住んでいたわたしは、空と水面が作る水平線というものを、頭の中で想像することが出来なかった。  親から十歳の誕生日に欲しいものを聞かれたとき、迷うことなく海に行きたいと答えた。海に向かうには列車に乗って幾つも山を越えていく必要があり、当時のわたしにとっては大冒険に等しい。道中、まだ見ぬ海を想像しながら、楽しい時間を過ごしていた。一つ目の長いトンネルを抜けるまでは。  トンネルを抜け、眼下に川を見下ろす崖沿いの線路に差し掛かったとき、何かが列車にぶつかる音がした。後で聞いた話では、山肌から滑落した巨岩が、車体の横を直撃したらしい。そのまま列車は跳ね飛ばされるような形で谷底に転落した。わたしは窓から投げ出され、落下する列車を横目に死を覚悟したが、不意に重力を感じなくなった。体の自由が利かず、周囲にあるすべてのものが動きを止めているような感覚。すぐ後に、誰かに抱き抱えられたような気がしたが、わたしはそこで意識を失っていた。  次に気がついたとき、病院のベッドに寝かされていた。看護師さんによると、わたしを助けたのは顔を隠した全身黒ずくめの人物で、素性も性別すら分からないとのことだった。ただ、その独特の風貌と、消えるようにその場からいなくなったことから、「話者(トーカー)」ではないか、という話になった。話者(トーカー)とは、呪文を唱えて魔法のような現象を起こす人たちで、世界に僅かに存在しているらしい。あの状況からわたしを救うには、魔法でもなければ到底無理だと思えた。  黒ずくめの話者は、わずかの間だけ時間を止め、わたしを助けて病院に連れてきたという事になる。わたしを助けたあの力が本当に時間を止めるものなら、時間を戻すことも可能なのではないか。わたしが海に行きたいなどと言い出さなければ、家族を失うことはなかった。あの時に戻ってやり直すためには、どうしても話者(トーカー)や魔法の事を知る必要があった。  わたしは時間を戻す魔法の事を知るために、孤児が暮らす施設を出た。あの日の事故さえ起きなければ、わたしの家族は今も幸せに暮らしているはずなのだ。
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