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ウィリアムズ男爵家の地下牢
離れ屋のキッチンではパブ2番地の夫婦が夕食の準備をしていた。二階まで肉の焼ける匂いが漂い、階下から聞こえるのはソーセージをねだるジゼルの猫なで声。
「では、夕食前に済ませてくるとしましょう」
ノードはそう言ってゲートを開いた。向かうのはジギタリスのところだ。
同行するのはあたしとマリアンナとイヌエンジュ。みんな魔塔の茶色いローブを羽織り、あたしは赤髪をひとつに括ってフードで隠している。地下牢に魔獣は連れて行けないからジゼルはゼンとコトラと一緒にお留守番。
ゲートを抜けてたどり着いたのは魔塔支部の書斎だった。部屋を出て、ノードを先頭にひと気のない階段を降りる。
「ねえ、ノード。前に来たとき地下への階段は見当たらなかったけど魔術で隠してあるんですか?」
「いえ。地下牢があるのは魔塔支部ではなく、隣のウィリアムズ男爵邸です。本邸の裏手に地下牢へ続く小屋があります」
イヌエンジュもマリアンナも驚いた様子。
「なぜ男爵の家に?」とマリアンナが聞いた。
「……そうですね。トッツィ卿なら口外しないでしょう」
ノードは笑顔の圧で口止めして話しはじめる。
「魔塔支部がこの場所にできたのは今から八年ほど前ですが、それ以前はウィリアムズ男爵家が支部の代わりを務めていたんです」
「えっ、本当ですか?」
イヌエンジュが声を裏返らせた。
「本当です。ウィリアムズ家は表向きは男爵家ですが、戦後に皇家から緑士という爵位を与えられ、密かにイブナリア遺跡の結界を守ってきた帝国唯一の魔術家門でした。ですが、魔力は遺伝するものではありませんし、魔塔支部を置くべきという話はずいぶん前からあったんです。そして緑士は廃止になり、ウィリアムズ緑士家の魔術師は姓を捨てて魔塔に入りました。ミランもアレンもです」
「では、ウィリアムズ男爵も魔術師ということですか?」
「男爵も夫人も魔術師です。二人は魔塔に入ることを拒み、陛下もそれを許可して男爵を名乗ることを認めました。その代わり男爵邸には常に監視がついていますし、執事も使用人も支部が手配した魔術師です。男爵はそんな息苦しい生活をしてでも貴族でいたかったようですね」
ノードの口元には微かに笑みがある。嘲笑ではなく同情しているようだった。
「緑士家は皇家から与えられる世界樹跡地管理費で生活していたのですが、緑士という爵位が廃止された時点でその予算は支部に回されるようになりました。現在ウィリアムズ男爵夫妻は支部からの業務委託で生計を立てている状態で、その中に牢番も含まれているんです」
「魔塔所属の魔術師ではないけど雑用係をやってるってことですか?」
イヌエンジュの声にもどこか憐みが滲んでいる。
「その言い方は男爵のプライドが傷つきそうですが、間違いではありません。委託業務もほとんどが名ばかりで、実は、男爵家の地下牢を使うのは支部ができて以来初めてです。帝都以南ではそれなりに魔術師犯罪がありますが、密入国魔術師の少ない北部では滅多にありませんから」
研究棟の一階出口にたどり着くと、ノードは「口外禁止ですよ」と唇に人差し指をあててその話題を終わらせた。
外に出ると宿舎の方からスパイシーな香りが漂って来て、あたしのお腹がグゥと鳴る。知らないふりをしようと思ったのにノードがクスッと笑い声を漏らした。
「早く終わらせて2番地夫妻の夕食を食べましょう」
研究棟を正門側へ回り込むと、じきにウィリアムズ男爵邸が見えた。庭先で話をしていた執事とメイドらしき使用人がノードに気づいてペコリと頭を下げる。メイドは屋敷の中へ入り、執事風の男がこっちに歩いて来た。
「ウィローは?」
ノードが聞いた。
「跡地に戻られました。アレンが今男爵と話しているところです」
「女性騎士が一緒に来たはずですが」
「騎士ですか? いえ、見かけませんでした」
イヌエンジュとノードが顔を見合わせたとき、生垣の陰からニャアと声がして黒猫が現れた。その猫はタタタッと駆けて来てイヌエンジュの胸にダイブする。
「わたしの勘違いだったようです」
ノードは執事風の男にニコッと笑いかける。
「すいませんが、地下牢に入りたいので男爵を呼んでもらえますか?」
「そう思って今呼びに行かせました。じきに出てくると思います」
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