プロローグ

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プロローグ

アズレッタは、自分を幸福な人間だと思っている。 生まれてこの方、望んだものが手に入らなかった試しがない。 アズレッタは、英雄アグラの孫娘として生まれた。 彼女の最も古い記憶は、それを知ったことだ。 己が祖母こそ、時の魔王討伐を成し遂げた『三英雄』の一人である。 その事実に強く憧れ、自身もそうなりたいと願い、その日の内に木剣を手にした。 祖母のように剣一振りで名を上げ、いずれは大陸の誰もが頷く英雄になりたいと。 まず幸いなことに、アズレッタには剣の才能があった。 年齢が二桁に差し掛かる頃には、並の戦士は容易く叩きのめしていた。 手足が伸び切ってからは、相手が祖母アグラでない限り、試合で負けたことはない。 命を賭けた実戦であっても――今も生きている以上は当たり前であるが――同様だった。 また運の良いことに、アズレッタは魔法の覚醒も早かった。 魔法が使えることに気付いた日がいつだったのか、彼女はもう覚えていない。 授かった魔法に彼女自身に危害を及ぼすような欠点はなく、そのくせ戦闘には極めて有用だった。 己の魔法の検証と訓練は、半ばアズレッタの趣味である。 更に理不尽なことに、アズレッタは美人であった。 彼女はそれを自慢しないが、かといって謙遜もしない。嫌味になるからだ。 青い瞳はやや視力が弱く、眼鏡を愛用している。艶やかな銀髪は伸ばして結い上げるのが最近の好みだ。 顔の良さだけは既に祖母を超えたと、当のアグラ自身が誉めてくれる。自分でもそう思っている。 強く、美しく成長したアズレッタは、十四歳で正式にアグラ運送協会に所属し、 それから六年、魔物や盗賊を相手に剣を振るってきた。 誰も彼女に敵わなかった。誰もが彼女を持てはやした。 戦士としてめきめき頭角を現すアズレッタを手放しで称賛しなかったのは、 他でもないアズレッタ本人だけである。 祖母アグラが魔王討伐の英雄である以上、魔王は既に倒されている。 過去千年の歴史を思えば、アズレッタの生きている内に次の魔王は現れまい。 英雄の孫と称されることは心からの誇りではあったが、 それはそれとして、自身が英雄となる機会はいつになるのだろうか。 英雄になる日が訪れないならば、せめて直接的に祖母を超える実力を身に付けようと思うも、 アズレッタの三倍以上の年月を生き、とうに全盛期を過ぎたはずのアグラは、未だ孫娘よりも強い。 アグラが魔王を倒したのは彼女が十九歳の時だったと言う。 今年で二十歳のアズレッタは、これまで一度たりともアグラに勝利したことがなかった。 かつてのアズレッタはこう考えていた。 いずれ自分は祖母を超えるだろう。祖母が衰えたために。 今のアズレッタはこう考えている。 あるいは祖母は、自分より格上のまま天寿を全うするのではないか。 自分はこのまま、祖母を超えることなく生きていくのではないか。 英雄になることなく死んでいくのではないか。 アズレッタは、自分を幸福な人間だと思っている。 生まれてこの方、望んだものが手に入らなかった試しがない。 新たに望んだのは、きっかけである。 それがいつかは知らないが、旧帝国に魔術の力がもたらされた時のように、 祖母アグラが親友ガレオンとともにランスローと出会い、後の三英雄が集った時のように、 自分をさらに高みへと押し上げてくれるきっかけとなる出来事である。 幼い日の情熱が、その火勢をやや失っているのは自覚していた。 自身が英雄となれずに人生を終えたとして、それを納得はするだろう。 だが、だからといってアズレッタは、英雄となることをあきらめてはいない。 今の自分を変えるきっかけを常に求めていた。 それが何でも構わなかった。 運命の出会いでも、絶体絶命の窮地でも、何でも構わなかった。 だからこそ彼女は、たった一人で殿を買って出たのだ。 * * * * * 「もうじき森を抜けるか……」 青い刃が特徴的な心もち幅広の大剣を肩にかつぎ、大きな車輪付きの木箱をガラガラとやかましく引っ張りながら、 大型の馬車が余裕ですれ違える広い石畳の上を、アズレッタは疾走していた。 夜の中を走るのに照明の類が必要ないほどの月明かりの下だというのに、 旧街道が分断した両脇の森は、まるで深い洞窟の入り口のようだ。 森の輪郭をなぞって、空間そのものをくり抜いたと錯覚するほどに、黒く、暗い。 旧街道が通っているのだから、森の深さも当然である。 山、川、森、海、 旧街道に面したあらゆる自然環境はたいてい不自然な変化を起こし、 そこにはたいていろくでもない魔物が住み着く。 旧街道は危険だ。 アズレッタたち運送協会であっても、必要がなければ旧街道には近寄らない。 仮に自分たちが運んでいた荷が何なのか知らなければ、 アズレッタは夜通し旧街道を進むなどという無謀は止めただろう。 逆にアズレッタがそれを主張したとしても、その時は仲間の方が彼女を止めたに違いない。 それほどまでに夜の旧街道は危険だった。 自分たちの運ぶ荷物が何なのか知らなければ、絶対に利用することはない。 だが彼女たちは全員、依頼された荷物が何なのか知っていた。 荷物の中身は、貴重な薬だったのだ。 難病を抱えた少女に、ようやく、本当にようやく届けられようとしている各種の特効薬だった。 大量の軟膏と様々な丸薬、いくつかの水薬。馬車を使わねばならない量がある。 アズレッタたちもすっかり顔なじみの少女だ。 何故ならば、対症療法のための薬をこれまで何度も届けたことがある。 それだけに、少女が徐々に衰弱していく様子も、皆が自分の目で見て知っている。 ここ数日は意識も定かではないと聞く。 事態は一刻を争う。旧街道を使うほかなかった。 旧街道を行けば単純に移動距離を減らせる。 現代の街道は、全て旧街道を避けて通っている。単純に陸路で最短距離を行こうとすれば、旧街道を通る他ない。 またその道幅は広く、手入れもされていないはずの石畳は今も滑らかで、馬車を飛ばすにも都合が良い。 問題は、魔物の襲撃をどのようにしのぐかだ。 薬の依頼人、少女の父である貴族は、その場で何割か返却されるほどの大金を運送協会に支払っていた。 運送協会もそれを受け、その時に用意できた最高の実力者を護衛に付けた。 六名いる護衛の半数が、アグラ運送協会所属の戦士の最高格『一級衛士』である。 が、一級衛士と分類される精鋭たちの中にも、当然、実力差は存在する。 人を襲うのは魔物の常だ。馬にも積荷にも興味はなかったことだろう。 全速力で走る馬車を追いかけて現れた巨大な鬼型の魔物を相手に、 一人で時間稼ぎを行える実力者は、その場にはアズレッタ以外にいなかった。 「ここは私が食い止める!君たちは先を急げ!」 陳腐と言えば陳腐な台詞と共に馬車を飛び降り、全力で剣を振るい、 わずかばかりの手傷を負うも、鬼型の絶命を確認したのが三十分ほど前のこと。 その後の半時間を、アズレッタはひたすら走り続けていた。 「森を抜ければすぐに旧街道からも外れられる……私の魔法も、それまでは持つはず……」 独り言が多いのはアズレッタの癖だ。 アズレッタの走る速度は、それこそさっきまで乗っていた馬車に匹敵するが、 彼女は息も切らさず、こうして独り言をつぶやく余裕がある。 流れ落ちた一筋の汗は疲労のためではなく、最悪の事態を想定した冷や汗である。 魔法を使うことで、アズレッタはたいして疲労することもなく、 人外の速度で走り続けることができる。馬の全力よりは遅いが、馬車の全速よりは速い。 このまましばらく走れば森を、旧街道を抜けることができるだろう。 しかし、アズレッタが魔法を使っていられる時間には限りがある。 全力で使えば一時間は持たない。 鬼型を倒すために十数分使った。離脱のために三十分使っている。 果たして、魔法が尽きる前に旧街道を抜けられるか。 鬼型を倒した時点で鎧は脱いだ。 長い取っ手を伸ばして引っ張る車輪付きの木箱は、鎧を収める鎧櫃(よろいびつ)だ。 鎧は脱ぎ、剣は自力でかついで、魔法をかけたブーツで、 アズレッタは夜道をひた走る。 このまま何事もなければ。アズレッタはそんなことを思う。 しかしここは旧街道、魔物の巣窟である。 森や山に通された旧街道には、平原のそれよりも強力な魔物が現れる。 夜の闇で視界も悪い。 「今、魔物に襲われたら――」 祖母以外からは聞いたこともない怪しい迷信であるが、 言霊などというものの話を思い出した。 あるいは本当に、この弱気なつぶやきが、実際に恐れていた状況を引き寄せたのか。 真っ黒な固まりにしか見えないやぶの中から、狼型の魔物が飛び出してきた。 「――ッ!」 喉笛を噛みちぎろうと飛びかかってきた狼型を、アズレッタは半ば無意識に切り捨てた。 真っ二つにした狼型の死体が石畳に落ちるのを見送り、 そこでようやく自分が魔法を併用して大剣を振るったことを自覚して、舌打ちをする。 残り時間はもう少ないというのに。 氷上でそうするかのようにブーツの足裏で石畳を滑りながら、 アズレッタは刃渡りが彼女の脚より長い大剣を肩にかつぎ直す。 立ち止まったアズレッタの四方を、次々と森から現れた四足歩行の獣たちが取り囲む。 普通の狼のように、狼型の魔物もまた、小規模ながら同族で群れを成す。 この状況下では仮に相手がただの狼であろうと厄介なことに変わりはないが、 グルルとうなりながらじわじわと間合いを詰めてくるのは、全てが狼型の魔物だった。 目の前の生物が魔物かそうでないかは、目が見える人間であれば誰でもわかる。 似通った生き物が虫だろうと魚だろうと何だろうと、魔物は例外なく一つ目である。 「不幸は重なるものだ……!」 アズレッタは吐き捨てた。 濁った水晶のような狼型たちの一つ目を、代わるがわる睨み返す。 鎧を脱いだのは失敗だったかも知れない。 鎧櫃の車輪の音が魔物たちを引き寄せたのか。あるいは着たまま走るべきだったか。 だが鬼型を倒した後も鎧を着続けていたならば、今頃はとうに魔法の力を使い果たしていたに違いない。 アズレッタの鎧は身に付けるだけで魔法を使わなければならないのだ。 ならば、一人で鬼型に立ち向かったのがそもそもの間違いだったのか。 しかし馬車を停めて仲間たちとともに戦いに臨んだならば、 アズレッタ自身は無事であっても、仲間に被害が及んだ可能性が高い。 最悪の場合は馬車が、少女に届ける薬が、その場で鬼型に破壊されることも―― 「……諦めてたまるか!こんなところで!私は!」 次々と湧いて出る後悔を振り払うように、アズレッタは大声で叫んだ。 同時に鎧櫃のふたを蹴り開ける。出し惜しみはしていられない。 狼型は六体。あるいは森の中にまだ群れの仲間がいるのか。 仮に今見えている倍の数に襲われたとしても、アズレッタには切り抜ける自信はあった。 問題はその後なのだ。 魔法が使えない状態で旧街道に取り残されれば、行き着く果ては知れている。 「けれど、まずは今……!目先の問題を何とかしないと……!」 生き残った後の心配をするのは、生き残ってからだ。 大丈夫だ。今までも散々命の危機に瀕して、その全てを潜り抜けてきた。 今度も必ず生き残る。 鎧に魔法を使おうとして、そこでアズレッタは気付いた。 辺りが明るくなり始めている。 「明るい……?夜明け……?」 月は高く、よって夜明けは未だ遠い。 口にしたアズレッタもそのことはわかっていた。 明るくなったのは空ではなく、この付近だけだ。 何かが明かりを伴って近寄ってくるのだ。 アズレッタの正面、月夜に開いた黒い穴のような森を断ち切って伸びる旧街道の向こうから、 やたらと強く、ほんのり黄色みがった光が近寄ってくる。 いったい何の音なのか、水車小屋のそれのような、生き物の鼓動のような、細かく規則的な低い音も聞こえた。 ――どるるるる…… アズレッタは自身の焦燥を改めて自覚した。 こんな強い光に、こんな大きな音に、今まで気付かなかったのか。 既に狼型たちも光の存在には気付いていた。 速度を増しつつ近寄ってくる光から一定の間合いを維持しつつ、キャンキャンと吠え散らかしている。 その姿はまるで飼い主の背中越しに大型犬を威嚇する、散歩の途中の子犬のようだ。 アズレッタのことは既に眼中にないらしい。 加速を続けていた光源は、ようやくその全体像が目視できるかといった距離で減速し、 バチン、と森に異音を響かせた。 それと同時に、ただでさえ強かった光が増し、周囲は昼間のように明るくなる。 別の光が加わったのだ。 桃、黄、青、白、色とりどりの擦りガラスを通したような光が、 夜空の下にその何かの姿を晒した。 2f1d7093-105a-4647-bba2-f96f8a6dfcae 「……荷車型の……ゴーレム……?」 アズレッタは呆然と光源を見つめる。 この極彩色の光が、実はすべて単なる飾りであるという非常識な可能性を考慮しなければ、 これはゴーレムが稼動している間、全身の発光部から放つ魔力光であろう。 ゴーレム自体はアズレッタも見たことがある。 アズレッタが驚いたのは、ゴーレムの形状だ。 やたらキラキラと輝く大きな箱の後部に、荷台らしき構造がくっついているのである。 生物を模すのがゴーレムの常だと言うのに、そのゴーレムは荷車に近い形をしていた。 正確には、その形が何を真似たものなのか、アズレッタにはわからない。 ただ彼女の知識の中で最も似通ったものが、荷車だったという話だ。 夜間にあってもそれとわかる、ところどころ鏡になるまで磨かれた車体。黒い四つの車輪。 荷台らしき部分、低めの壁のふちを、無数の光点が点滅を繰り返し、くるくると四辺を回っているようにも見える。 不可解なのは、馬車で言うなら御者席に当たる部分『だけ』が、壁と屋根で箱状に覆われているという点だ。 アグラ運送協会創始者の孫娘として生まれ、アグラ運送協会の護衛役を生業としているアズレッタは、 子供の頃から古今東西、ありとあらゆる形式の馬車、荷車の類に親しんでいる。 荷台を布で覆った幌馬車など見飽きている。 貴族が乗り込む豪華な客室付きの馬車を目にしたことも数多い。 成金が実用性を考えずに作った、一応車輪がついているだけの芸術作品の類すら何度か見た。 が、雨除けの屋根やちょっとした壁が付いているならいざ知らず、 荷台を丸ごと空に晒しておきながら、御者席の方はガラス窓付きの箱部屋と仕立てるような、 そんな奇怪な馬車には覚えがない。 しかもその箱は単なる四角形でなく、あちらこちらが何とも形容しがたく尖っている。 ゴーレムである以上、何らかの魔術的な意味があるのだろうが、アズレッタの目には飾りとしか見えない。 この緊急時にあって緊張感のないことに、アズレッタはその造形を少し格好良いと思った。 そもそも御者席を完全な箱にしてしまっては、馬を操るのに恐ろしく不便だろう。 このゴーレムが馬に引かれることなく走っていたのはついさっき見たが。 正直なところそこが本当に正面なのかは自信がなかったものの、 車輪の向きと走ってきた方向から推察する箱の正面、 そこに生き物の目のように連なった左右二つの強い光がある。 近寄って来たことに気付いた要因である、黄色みがかった光源だ。 ゴーレムは至るところが光っているが、その中でも特にこの二つが強い光を放ち、 アズレッタと狼型らを真昼のように照らし出している。 ゴーレムのガラス窓は広かったが、内外の明暗差から、窓の中を伺うことはできない。 ――ぱぱーっ!ぱーっ!ぱーっ! 命の危機も忘れて目の前の変てこなゴーレムに目を奪われていたアズレッタは、 突如として鳴り響いた大音響に我に返る。大きなラッパの音。 音に驚いたのは狼型も同じだ。群れには明らかに恐慌の気が見られる。 「……ノルーッ!ノレ!ノルトキ!」 今なら、この隙をついて狼型の群れを仕留められるかも知れない。 それに、このゴーレムがこちらを襲ってくる可能性もある。 アズレッタが青光りする愛剣を握る右手に力と魔法を込めた時、 御者席の箱の中からこもった声が聞こえていることに気付いた。 「ノル!ノッテ!……ノレ!」 気付けばゴーレムの側面の窓、上側に少しの隙間があった。これまた妙なことに、下に向かって開く引き窓らしい。 声はそこから聞こえてくる。 人の声なのは間違いなかった。恐らく、若い女。 だが何を言っているのか。どこの言葉か。知らない島の言語か。 最初はそのように判断した箱の中の声が、実際は発音がとんでもなく下手なだけで、 『乗れ』 そう叫んでいると気付いた時。 弾かれるようにアズレッタは鎧櫃を抱え、ゴーレムの上空へと飛び上がっていた。 ゴーレムとは多少の距離があり、そもそも御者席の箱の頂点は人の背丈並に高かったが、 それでも魔法が使えるのであれば、それを飛び越えて荷台に着地する程度の芸当は、アズレッタは苦もなくこなす。 「乗る!乗れ!乗るとき!乗――」 「乗った!大丈夫だ!出してくれ!」 荷台に飛び乗ったアズレッタがそう叫び返すと同時に、ゴーレムは凄まじい加速で走り出した。 無様に尻を打ち付けたりはしないものの、二、三歩たたらを踏むアズレッタ。 この奇妙な物体を恐れ、本気で追いかけてはいないのが大きいのだろうが、 馬車より速く走るアズレッタに平然と追いついてきたはずの狼型が、徐々に後方に小さくなっていく。 夜闇の中では正確に計れないが、このゴーレムはずいぶんと速く走るらしい。 少々恐怖を覚えなくもないが、今はそんなことも言っていられない。逃げる分には好都合だ。 「……助かった、のか」 現状を声にした途端、どっと疲れが襲ってきた。 ブーツの魔法も解除し、アズレッタはころんと荷台に寝転がる。 ゴーレムの揺れに合わせて揺れる夜空が見えた。 がおおおおお…… 意識を失うのは早かった。 ゴーレムの咆哮をまるで気にせず、アズレッタはそのまま寝入ってしまう。
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