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第十話 ランスローの書面
「――お待たせいたしました」
領都、アグラ運送協会会長アルフレッドの邸宅。アズレッタの私室にて。
本来の性格は鳴りを潜め、穏やかな笑みを浮かべたステファニーが、台車に載せていた皿のふたを外す。
部屋にふわりと香辛料の香りが広がった。
皿の上には、付け合わせの葉野菜に彩られた揚げ物が鎮座している。
「試作カレー三号を用いた、カレークリームコロッケでございます」
「うむ」
三人で食事をするにはやや狭い円卓に着いたアズレッタが、
背筋を伸ばしてお辞儀をしたステファニーの言葉に無表情に頷く。
その横にはマリーも座っていて、緊張した様子で視線だけを動かして、交互に二人を見ている。
一呼吸置き、おもむろにアズレッタが言った。
「満足か?」
「オッケー、大満足。研究期間の割には良い出来だからね、
そりゃカッコも付けたくなるってもんよ。よっしゃ、食べましょ」
一切の段階を踏まず、突如として素に戻ったステファニーがいそいそと勧められてもいない席に着き、
そんなメイドにアズレッタは、誰に促されることもなく水差しを取って、同席者二人の分の水をグラスに注ぎ始めた。
今度こそ戸惑いを隠せないマリーが、唖然としてきょろきょろと二人の顔を見比べていた。
* * * * *
三人が領都への帰還を果たし、数日。
アズレッタとマリーはこれといって何もせず、アグラの帰宅を待つ日々を送っていた。
『リュウコツダニ』山村に対する迅速な救援を果たしたデコトラの性能、
そしてそれを操る唯一のゴーレムマスターであるマリーの重要性は、今回の件の関係者は誰もが理解した。
デコトラは余人がおいそれとは近付けない、アグラ運送協会会長アルフレッド邸――
つまりはアズレッタの実家の敷地内で、その存在を隠されながらも厳重な警備化に置かれている。
マリーもまた運送協会の今後に少なからず影響を及ぼす要人として、協会の正式な客人待遇で迎え入れられた。
最も、彼女はアズレッタのそばをろくに離れなかったので、これといって何らかの歓待を受けたわけでもない。
ステファニーに料理を教えたり、アズレッタから大陸共通語の指導を受けたりして過ごしていた。
山村におけるアズレッタの行動、またその原因となった者たちの存在についてはもちろん問題視されたが、
されただけだった。最終的にはお咎めなしとなっている。
正式な運送協会の人間が彼女一人しかいない状況で、
多少でも村を離れたアズレッタの行動は責められるべきだが、
一方で今回の被災における彼女らの活躍は無視できない。
また、崩れた崖の上で起きた一連の出来事は、実際に起きた証拠がないのだ。
他でもないアズレッタ本人の証言以外には。
死体は痕跡すら見つからず、アズレッタが崖上に向かったことを知っている者すら、ステファニーとマリーの二人のみである。
アズレッタが遭遇した男たちが何者かさえ、そもそも本当に崖崩れの関係者だったのかという点からして不明であった。
彼らを直接殺害したのだって、アズレッタではない。
結果として当事者の誰もがこれといった判断を下すことができず、
困惑気味に、なし崩し的に、ほぼ自主的な自宅謹慎という処分に落ち着いた。
自宅謹慎と言っても、そもそも火消し役たる一級衛士のアズレッタは、協会が切り札を切る判断をしない限りは動けない。
日数で見れば一年の半分以上を働けずに過ごす。
デコトラというイレギュラーが絡み、かつ果断な行動が求められた今回の被災支援が例外なのだ。
アズレッタが家にいることなどいつものことであり、罰には値しない。
例えば運送協会を嫌う人間であれば、アズレッタへの対応に文句の一つも出るかも知れない。
だがこれは前会長アグラのような身内への甘さというよりは、
可能な限りデコトラを隠匿したかったというのが協会の本音だろう。
結果論とはいえ、被災対応には表向き何の問題も発生していない。
それどころか大変に好ましい結果を得られたのだ。
当事者の言葉だけを鵜呑みにしてわざわざ処罰するよりも、
そうすることで今回の成果の主な要因、デコトラの存在が知れ渡ることのほうを重く見た。
アズレッタに何らかの処分が下されるとしたら、ある程度その内容について詳細に触れざるを得ない。
一級衛士である彼女の参加した案件の内容は相応の管理下にあり、記録も残されている。
ほんの数日前まで『ススケムリ』に居たはずの彼女が、
そこから遠く離れた領都の集積地にひょっこり顔を出し、
あろうことか日を跨がずして『リュウコツダニ』の山村に突如出現、何かしらの失態を演じた――
常識ではありえない瞬間移動の理由が必要になるのだ。
仮に馬鹿正直に事実を連ねたなら、少なくとも運送協会の関係者には広くデコトラのことが知られてしまう。
どこかの詩人が『大陸の血管』と謳った超巨大組織、
アグラ運送協会の力をもってしても不可能と断じられるあれやこれを、
比較的あっさりと実現してしまう規格外の高性能ゴーレムの存在が明るみに出る。
そのタイミングは今ではないと判断されたようだ。
少なくとも公的なデコトラの秘匿は、
今のところほぼ実害のない衛士の失態に筋を通すよりも優先されるというのが、
この件に携わった協会上層、ひいては協会長アルフレッドの考えらしい。
アズレッタはそれを無罪放免と喜ばず、むしろすっきりしない心地であったが、素直に従いはした。
全力で隠し通そうとしたところで、あちらこちらに出現したデコトラの噂はいずれ領邦に広まることだろう。
だが少なくとも今、デコトラの存在を知る人間の中で、
今すぐデコトラの正確な情報が広まって得をする人間は居まい。
これといった罰則がないことに多少の後ろめたさはあったが、
何よりマリーとデコトラを守るためであり、名誉挽回の機会も得やすくなったと納得することにしたのだった。
* * * * *
昼食の主菜、皿の上の揚げ物――コロッケにナイフを入れると、
快いカサついた感触に次いで、中からとろりと赤いソースが広がった。にわかに香りが強くなる。
それはあの至高の美味、カレーライスの香りとは異なるものではあったが、
一方で恐らくはこれがカレーライスの大元だろうと察することのできる、どことなく近しい香りであった。
「面白い、サクサクの衣の中に熱々のソース。
これは……ああそうか、半ば凍らせたソースに衣をつけて揚げたんだね」
「うへえ、さすがに運送協会の令嬢様は良いもの食ってますなあ。
似たもの食べたことあるわけ?マリーにこれの作り方聞いた時は、私は目から鱗が落ちたわよ?」
「あー、ステフ、絶叫、してましたね。アズにも聞かせたかった」
「聞くまでもない、たぶん知ってる。それに私が思い出したのは、君が作った挟み焼きだぞ?
平パンにハムとチーズ挟んで焼いたあのサンドイッチだ」
「確実、あー、絶対。絶対美味しいやつ」
「そりゃパンハムチーズと合わせてまずいわけないわ。つか確かに、焼いたらチーズ溶けるわね!
何で私はソースを冷やし固めるのを思いつかなかったのよ!」
「それは、普通の人はそう簡単に氷室なんて使えないからだろう。我が家が特別なんだ……さて、味は」
中身を失いしぼみ始めた衣に赤いソースを絡め、口に運ぶ。
マリーが出してくれたカレーライスよりもだいぶ辛く、スパイスの風味が前面に出た比較的単純な味だが、
それでもアズレッタは確かに、このカレーライスとはあまり似ない赤いソースを、カレーであると判断した。
有り得ない仮定だが、例えばマリーがここにおらず、
二度とカレーを食べる当てがないところにこれを出してもらえたなら、アズレッタは泣いて喜んだに違いない。
「うん、美味しい。
一切の私情を捨てて感想を述べるなら、マリーのカレーライスよりずっと単純な味だけど……
そんな評価は絶対にしたくないな。
この短期間で、ここまで近しいものを、領都の食材で作ってもらえるとは思ってなかった。
さすがはステフだ、本当に素晴らしい」
「良いわよ嬢、もっと褒めなさい。――そして、その評価も自分でわかってるから大丈夫。
そもそも作る前からわかってた。スパイス、最低限の三種類しか使ってないのよ。このカレー」
基本的なやつの作り方をマリーが知ってて助かったわ、とステファニーが笑う。
すでに自分のコロッケの一つを胃に収めてしまっていたマリーが、ごくんと喉を鳴らした後に引き継いだ。
「わたしの国、カレー、出来合いのもの、売ってます。
温めるだけのカレー、たくさんあります。
Θ◆◆……あー、スパイス、調味料、いろいろ固めて、鍋に溶かすだけのもの、たくさんあります。
スパイスから作る人、少ないです。作り方、詳しい、知らない、ごめんなさい」
マリーの共通語もだいぶ聞き取りやすくなり、語彙もそこそこ増えてきている。
特に何も言わなかったが、アズレッタは密かに手応えを感じていた。
案外意思疎通に不便はなかったが、言葉が上手に話せるのなら何かと助かるのは言うまでもない。
「問題ないない、研究のし甲斐があるってもんよ」
「見通しはどうかな?」
「行く方向はわかるけど、道のりは果てしないってとこかしらね。
今現在、ここまでの味に持ってけたのは会心の出来と自分で思うもの」
「三号、言ってましたね」
「三回目の挑戦でこれが出来たと?」
「その通り。一号は伝聞だけでスパイス買って失敗。マリーを引き連れて領都を駆け回り、
ようやく手に入れた正しいスパイスで作った二号は、口から腹まで痛くなるほど辛くし過ぎてねえ」
「ステフ、すごいです」
「全くだ。その努力には賞賛の念を禁じ得ない……これは今後、君の屋台で出すのか?」
「マリーから許可をもらえればね――と言いたいけれど、絶対無理。
辛味が強いのも人を選ぶけど、単純にめっちゃ高いわよコレ。
普段相手にしてる連中の財布の中身を考えると、私の屋台じゃ採算が取れんわ」
ポーズはひょうきんに、しかし顔は本当に悔しそうに、ステファニーは肩をすくめる。
マリーもアズレッタも慰めるように頷いた。
産業と言えるほどの大規模な香辛料の生産は行っていないこの領邦にあっても、
他でもないアグラ運送協会の尽力によって、金さえあればスパイスを手に入れることはできる。
裏を返せば、スパイスを手に入れるには、それなりの金が必要になる。
領都の一般的な食文化において多用される、庶民的な香辛料であるならばともかく、
運送協会が遠方より運んで来た輸入品のそれは、どうしても輸送のための費用が値段に反映されてしまう。
マリーが異国での呼び名と共に特徴を説明した材料は、ステファニーが目を丸くするほどには高額な品で、
アズレッタが領都におけるおおよその値段とその価値を教えてやると、今度はマリーが目を丸くした。
運送協会会長宅のメイドという稼ぎに、ろくに競合相手のいない集積地での屋台の副業。
それなりに収入のあるステファニーも尻込みしてしまう額だ。
ましてそれは美味しいものが完成する保証のない試みに支払われる、いわば材料費でなく研究費である。
「マリーの備蓄が尽きてもカレーを食べられる可能性が少しでもあるなら」と、
まとまった金額をぽんと出した一級衛士アズレッタの投資あればこそ、
ステファニーも失敗を恐れず再現に挑戦できたのだ。
「まあ、当面は私たち三人が食べるための品になるか。
とはいえ今後も資金提供は惜しまないぞ」
「カレーと言いクリームコロッケと言い、マリー、他にも変わった料理知ってそうだしね。
まあ任しときなさい、金額には報いるし、期待には応えるわよ」
食事の礼法などどこ吹く風、アズレッタとステファニーは決意も新たにテーブルの上で拳を打ち合わせる。
パンもスープも食べ尽くし、皿の上にコロッケの一かけらを残すのみとなっていたマリーが、その様子をじっと見ていた。
昼食の後。料理の感想にご満悦のステファニーが、洗い物を台車に載せて上機嫌で去っていき、
アズレッタの自室には、部屋の主とともにマリーが残される。
「つまり、料理は一通りできるけど、こっちの調理器具の使い方がわからないわけだ」
「特にオーブン、コンロ、火を使うもの、難しいです。
焚火、使い方、練習しました。こっちの台所、使い方、わかりません」
「野営とは勝手が違うのはわかるよ。故郷ではどうしていたのか聞いても?」
「わたしの国の道具、使い方、簡単、便利です。わたし、使えます。
道具、いくつか、デコトラ、載せてます。が、燃える……木、薪、あー……燃料。燃料、足せません」
「ふむ……?あの火を点ける道具――ライターの中身のようなものかな。
それはそうだね、燃えるものがなければ火は点かない。
……君の国のあれこれが、あくまで魔術に由来しない技術であることを実感させられる。
ゴーレムのように陽光に当てておけば動きますとはいかないか」
「ゴーレム、太陽、動きますか?」
「それすら知らなかったか。デコトラだってゴーレムだろう、補給くらいは知ってるかと――」
こん、かこん。
他愛のない会話を遮り、部屋に乾いた高い音が響く。
部屋の扉に取り付けられた金属のリングが扉を叩く音だと、アズレッタはすぐに察した。
要はノックだ。誰かが入室許可を求めている。
「ステフ?」
「いや、私が居るのをわかっていたら、ステフはノックなんてしない……どなたですか?」
「姉さま、僕だ。急ぎの用事がある、開けてくれないか」
「アルベルト?」
扉の向こうから聞こえてきた声が、今朝から働きに出ていたはずの弟のものであることを知り、アズレッタは眉を持ち上げる。
「開いてるよ、入って」
「ありがとう」
果たして、部屋に入って来たのは確かにアルベルトだった。
やや戸惑ったような表情で姉の姿を確認し、次いでその隣に寄り添うマリーへ軽く頭を下げる。マリーも倣った。
「何か――いや、何かはあったんだろうね、君がこの時間にここに来たなら」
「うん。姉さま、お婆さまが帰って来た」
アルベルトが緊張した様子で言った。マリーがぴくりとわずかに身じろぎして、それに合わせるようにアズレッタは息をつく。
「――来たか。いよいよだな」
「やっぱり何か知ってるんだね、あまりにも様子が普通じゃなかった」
目を細めて腕を組み、アルベルトが続ける。
「先ほど第一集積地に来られたんだけど、お婆さま一人だったんだ。一緒に領都を発ったはずの付き人は誰もいない。
聞けば領都へ帰る途中、『ナリイシ』で姉さまの伝言を聞いて、
そこから付き人たちに後から来るよう伝えて、一人でここまで走って来たと」
「『ナリイシ』か。あの辺りから替え馬なしなら、確かに最速の移動手段はお婆さまの脚だろうね」
「納得しないでよ、一昼夜ぶっ通しで走り続けたらしいんだぞ。
お婆さまだっていつまでも若くないんだから、無茶をさせたらいけないだろう」
お婆さま――アグラについての認識を共有できている姉弟の横で、
マリーだけが「走り……?脚……?昼夜……?」と首を傾げているが、二人は構わず会話を続ける。
「それは謝るけど、まさか一人で走って帰って来るとまでは思わなかったんだ。
私は後で時間をくれと書いただけで、急いでなんて伝えていないぞ」
「何なら直接ここに来かねない勢いだったよ。
とりあえず体を洗ってもらって、今は何か口に入れてるところだと思う……
原因はお婆さまの帰り道の拠点に、姉さまが片っ端から飛ばしてた鳩だね?
お婆さまはできれば僕にも同席しろって言うし……一体何を言付けたんだよ、姉さま」
「ランスローの孫が見つかった」
さらりと言い放たれたアズレッタの言葉に、アルベルトは限界まで目を見開く。
間髪入れずにアズレッタの隣、これといった表情もなく佇むマリーの顔を見た。
この状況下では他に考えられないだろう。そして、それは事実だった。
「そっ……それ、は……マリーさんが……?」
「うん。マリーこそが、三英雄ランスローの孫娘だ。私たちと同様に」
「確かなのか……!?それこそ僕らでもない限りは、三英雄の血縁なんて使い古された詐欺の種だぞ!?」
「余人に証明するのは難しいだろうけど、私たちに限れば信用する根拠がある。
主観で答えて欲しいんだが、あのデコトラが、この世のゴーレムマスターに作れるものだと思うか?」
「…………異世界からの来訪者……ランスローの故郷。
信じるのか姉さま、お婆さまの昔語りを?」
アルベルトもまたアグラの孫であるから、姉ほど熱心な聞き手ではなかったにせよ、
祖母の武勇伝を耳にする機会は何度もあった。
アグラがごく近い身内にしか話さなかった三英雄ランスローの出身についても当然知っていて、もちろん信じていない。
いぶかしむアルベルトの視線を真っ直ぐ受け止め、アズレッタは頷く。
「信じる。信じた。信じていなかったが、信じた。
マリーはこの世界についてあまりにも無知で、また彼女の装備はこの世界の常識を外れたところがある」
人の腹の内を読む魔法使いが歴史上実在したかは怪しいものだ。
ならばマリーの本心はマリー以外に知りようがなく、全てが演技である可能性はある。
だがマリーがデコトラをはじめ、アズレッタの常識では考えられない道具をいくつも所持しているのは事実だ。
それすらも説明が不可能なわけではない。
今まで全くの無名であった技術者、あるいは発明家かゴーレムマスターか、
そのような稀代の天才より未知の道具を授かったのかも知れない。
不可思議な物品を無より生み出す魔法使いが現れ、協力してくれることだってないとは言い切れない。
他の誰かを介したのではなく、マリー自身がそういった逸材である線もあるだろう。
これまで知られていなかった旧帝国の遺産を、何らかの事情で手にしたとも考えられる。
「どれもご都合な仮説だ。荒唐無稽さで言えば五十歩百歩だろう。
それなら本人が主張している分『よその世界からやって来た』が一番信ぴょう性がある」
「それは……でも、だけど……」
「マリーはランシロウの名を知っていたぞ。
彼が独特の発音をすること、なまりがあることも知っていた」
アズレッタが言った。アルベルトは表情筋という表情筋を片端から強張らせた顔を手で覆い、天井を仰いだ。
三英雄ランスローを知らない者は稀だが、その英雄の本名を知る者ほど少なくはない。
大陸においてそれを完璧に理解する人間は話す当人だけであったろう異界の言語、
その話者の中においてもランスローは、なまりの強い発音をしている自覚があったそうだ。
何かと鼻にかかる発音をする方言を話す地方で育ったらしい。
彼が気負わず自身の名を口にすると、他人の耳には「ランスロウ」と聞こえる。
それがたまたま大陸においては「ランシロウ」などよりはよほど一般的な人名の発音に近かったため、
そのうち彼は自らを「ランスロー」と名乗るようになった。
そのため、まだまだ英雄を直に知る者が多いこの時代にあってすら、
ランシロウの名を知る者はほとんどいない。
ましてそれがランスローになった経緯を知る者など、それこそアズレッタやアルベルトたち以外には存在しないだろう。
三英雄の物語の詳細を三英雄本人から聞かされるような、ごく近く親しい肉親でなければ知り得ない情報なのだ。
「マリーはその例外だね。
彼女はランスローの話す異界語を完璧に理解できるから、
ランシロウがランスローになった子細に自分で気付いた。
最も、彼女は他でもないランスローの孫だから、そういう意味では例外とは言えないけど」
「どうだって良いことだよ……ああ、そうか。確かにそうだね。
ランシロウの名を知り、黒髪黒目で、何よりあのデコトラだ。
ランスローの孫である証拠としては弱いとは思うけど、間違ってもただの詐欺師や嘘つきではありえない。
お婆さまや父さまに会わせるだけの理由はあるわけか……」
アルベルトはマリーへ詐欺師呼ばわりした非礼を詫びて頭を下げ、
そこはまるで気にしていなかったらしいマリーが慌てて下げ返した。
「正直、僕もマリーさんのことは真実だと思い始めてはいるけど……
客観的に明確な証拠はあるのかい?
彼女の外見やデコトラの性能は、確かに異世界の産物としたほうが納得はいくけど、
マリーさんが異世界出身であることと、ランスローの孫であることは、厳密には結びつかないよ」
「そうだね。そこはお婆さまの方からもいろいろと質問してもらうほかないだろうな……
とはいえ、最悪の場合は切り札もある。詳しくは話せないが、マリーの判断で切ってもらうよ」
アズレッタがマリーの方をちらりと見て、マリーが頷く。アズレッタは小さくため息をついた。
予想外に早く戻って来たアグラだったが、それでもその到着までに、アズレッタたちには十分な時間があったのだ。
アグラに対し、マリーがランスローの孫であることを認めてもらうための準備は入念に進めてきた。
アズレッタの言う切り札とは、ランスロー本人が用意した書面である。
アグラとの会談に向けての作戦会議の場で、はじめてマリーがアズレッタにその存在を伝えた書類。
人の顔面を隠せる程度の大きさの、直立するほど分厚い封筒の中に収まっていて、
この大陸に辿り着いたならばアグラかランスローに渡すよう、日頃から言付かっていたそうだ。
マリーは封筒の中身に何が書いてあるのかを知らない。
アズレッタもまた、それを確かめるわけにはいかなかった。
デコトラなどというものを作り出した人間が、
実の孫の人生を台無しにしてなお譲らない悲願を託した封筒なのだ。
うかつに封を切っては何が起こるかわかったものではない。
とはいえそれは、デコトラの出所がランスローであることを証明するものであることは間違いないはずで、
アズレッタは喜び勇んで、まずこの書面をアグラに見せることを提案した。
これをアグラに見せたなら、少なくともマリーの身柄についての問題は解決したも同然だ。
わざわざ協会に金を払ってまで、いずれこの家に帰ってくるはずのアグラに伝書鳩を飛ばしたのも、
この絶対的な切り札の存在を知ったからに他ならない。
話がどう転ぼうと、これさえ出せば解決するのだ。ならば会談の場を早く取り付けるため、大事を演出した方が良い。
だが、この書面の提出を、マリーは強く拒否した。
「これに、『デコトラ、アグラさんに渡す』、書いてある、あったら、わたしたち、デコトラ、使えませんね?」
デコトラは自分たちのために使うと、『ススケムリ』で約束したではないかと、そう言うのだ。
アズレッタとしてももちろんデコトラは惜しい。
とはいえマリーは命の恩人であるし、今や大切な友人の一人でもある。
その身分の保証のためならば、デコトラの供出に迷いはない。
また、ランスローが何らかの文を遺したのであれば、それをアグラに読ませてやりたい気持ちもあった。
孫の友人だからとステファニーに実家のメイドの仕事を用意し、
年若い弟であるアルベルトを運送協会の要職に据える。
とにかく身内贔屓の過ぎるアグラであったが、裏を返せばそれだけ仲間を大切にする性格であるとも言える。
共に青春を駆け、再会は二度と叶わない戦友の遺した文章。
何が書いてあるとしても、読ませてやれるものなら読ませてやりたい。
マリーへの虐待を知った今となっては、ランスロー個人を手放しで尊敬することはできないが、
かと言ってランスローが、アグラやガレオンの仲間であった事実までが捻じ曲がるわけではないのだから。
そもそも、デコトラはマリーにしか動かせないのだ。
一応の権利が運送協会に移ったところで、デコトラがマリーの手を完全に離れることはないだろう。
仮にランスローがマリーをデコトラを使うための奴隷として扱うことを想定していようと、
そんな非道はアグラが、運送協会が許さない。
これらを丁寧に説明しても、割と強硬にマリーはそれを突っぱねる。
自分たち――というよりは、アズレッタの意思でデコトラが使えなくなる事態を恐れているようだ。
それは、ひとり街道で遭難する命の危機を救ってもらった、アズレッタへの恩を返すためだと言う。
命の恩人に報いたい気持ちはアズレッタも同様なのだが、だからこそ困り果てたのだった。
とはいえマリーも、アグラにランスローが遺した文章を読ませてやりたいというアズレッタの思いには理解を示した。
万一上手くデコトラの権利についてアグラの言質を取れたならば
その時はアグラにランスローの文書を渡すこと、
そしてそうならなかった場合、文書の存在を明かすか否か、判断とタイミングはマリーに一任することで合意した。
「本当なら、初手で切るべきカードなのだけど……
なあマリー、『ススケムリ』ではああ言ったものの、やっぱり素直に事情を話して――」
「決めたこと、ひっくり返す、駄目です」
「それは同意するけど、でも、お婆さまに――」
「駄目です」
「……仕方ないな」
肩をすくめて息を一つ。アズレッタがぱんと手の平を打ち鳴らし、この場を収めにかかった。
「よし、準備ができ次第すぐに向かう。アルベルト、場所は?」
「応接室」
「わかった。マリーは着替えてくれ、セーラー服だ。
異世界のものは見せられるだけ見せていこう」
「はい」
話を済ませたアルベルトがまず部屋を出て行き、着替えが必要なマリーもそれに続こうとして、
指示を出した当人のアズレッタがふいにそれを呼び止めた。
「あ……マリー、待った。今の今まで言い忘れていたが、先に伝えておくよ」
「はい?」
「お婆さまのことなんだが……お婆さまは基本的に温厚な人だ。
理由もなく人を嫌ったり怒ったりはしないし、礼儀作法にもうるさくない。
だから、緊張しないで話すことを心がけてくれ。お婆さまは別に怒っていないから」
アズレッタの言葉の意味がわからずに首を傾げたマリーに、アズレッタは続けた。
「お婆さまは、その。非常に個性的な見た目をしているんだ。
――それだけだから、不必要に怖がらないようにね」
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