第十二話 小さくなった巨人

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第十二話 小さくなった巨人

おおよそ百年から二百年の時を隔てて定期的に誕生する、魔王と区分される魔物の一個体。 彼らには『強い』という以外の共通点はない。 大きさも形状も立ち振る舞いも異なり、その強さの質すら様々だ。 触れずとも近付くだけで肉を焦がす灼熱の血液を宿すもの、 吸い込んだ人間をドロドロに溶かす瘴気を放つもの、 どれほど切り刻もうと、拳ひとつほどの肉片ひとつ残してしまえばそこから再生するもの、 動かずじっとしている分には絶対に視認できない透明な身体を持つもの、 実に個性豊かかつどれも厄介な魔王の逸話が、いくつも現代に伝承されてる。 「それらを思えば、私たちが倒した魔王は実に単純な奴だった。  図体がでかく、相応に腕っぷしが強く、鳥より速く飛んで、地上へ熱線を吐く。  ただそれだけの奴だ」 アグラの物言いは皮肉のようでもあったし、単に事実を列挙しているだけのようにも聞こえた。 実際はその両方だろう。 アグラたち三英雄が倒した魔王がどのようなものであるかはアズレッタも良く知っている。 唯一それを知らないマリーへ向けたアグラの説明をなぞるように、 アズレッタは幼少から幾度となく想像した魔王の姿を思い出していた。 ドラゴンと巨人の相の子のような個体であったそうだ。 領主ガレオンの屋敷に保管されている頭蓋骨を実際に見たこともある。 ちょうど『リュウコツダニ』でよく出土する亜竜の骨のようで、それよりも刺々しい形状。 人の倍大きなアグラの身体に、頭の骨だけで比肩する巨大さが印象に残っている。 しかしアグラの話では、トカゲのように四足歩行をするでも、昔話のドラゴンのように猫背で歩くでもなく、 まさに人のように背筋を伸ばして二本足で歩いたそうだ。竜の頭と翼を持った大巨人であったらしい。 「何せ小山のような体格をしていたから、居所を知るのだけは容易だったが。  しかし奴は空を飛ぶ。そして速い。弓もカタパルトも届かない天より、大地に大穴を穿つ熱線を吐きつけてくる。  まずは翼を封じねば戦いにすらならず、そのために必要な人材――有用な魔法使いの捜索、技術開発、  それに付随する各国への根回し、時間稼ぎに必要な戦力の確保……  討伐作戦は長きに渡り続いた。そもそも三英雄自体が、あの戦いにおいては中途で参戦した類の戦士だ」 アグラの話は、当然アズレッタの認識とも一致する。 吟遊詩人が当代の魔王討伐を歌う際、特に見せ場となる戦いが二つある。 一つはもちろん、地に墜ちた魔王の首を獲るための最終決戦。 そしてもう一つは、決戦への下準備、この世の何より速く飛んだとされる魔王の翼、それをもぎ取るための空中戦だ。 翼を持たない人間が、空で魔王を迎え撃つ。 それはとても作戦と呼べたものではない、不可能に不可能を重ねた夢物語だった。 「いずれ私たちが死に逝く頃には、誰もが作り話と笑うだろう」 未だ健在の当事者たちは、誰もがそう太鼓判を押す。 たまたまその時代に生まれていた何人もの魔法使いが力を合わせ、 旧帝国の貴重な遺産である不思議な道具、研究途上であった新技術の数々が博打を打つ調子で実戦投入され、 それらの準備を完了するまでの魔王の足止めを引き受けたがために、半ば滅んだ小国すら存在した。 三英雄は、そんな戦場で頭角を現した者たちである。 元は魔王の影響で狂奔する他の魔物たち、そして魔王自体を食い止めるための戦いに参加していた者たちだ。 最初から魔王討伐の中核を担っていたわけではなかった。 が、彼らの挙げる戦果はいちいち常軌を逸脱していた。 上下が不揃いな手札の向きを直すかのごとき気安さで、絶望的な負け戦をひっくり返す。 その一騎当千の武力を買われ、二度目のない、決して失敗できない作戦の要、 魔王との直接戦闘を行う役割に抜擢されたのである。 アグラとガレオンは当初より二人組で活動していた傭兵だったが、 彼らがランスローと出会ったのは、その選抜がきっかけだ。 「ガレオンとは戦士となった当初からの昔馴染みだったが、  私たちとランスローとの付き合いは、明確に、短い。  行動をともにしていたのは、三年にも満たなかったはずだ。  ……だが彼は、私たちにとって、何より大切な仲間だった。信頼に足る男だった」 ふいに周囲の気温が下がったような気がして、アズレッタはちらりと横目でマリーを見た。 彼女の表情からは相変わらず感情の機微が読み取れない。 「未だ人類に数少ない、私たちと肩を並べる戦力。  普段は頼りないところもあったが、ここぞと言う時は決める男だった。  この世界にはあまり知られていない、異世界の知識も披露してくれた。  歳が上だったのもあって、私もガレオンも、彼を兄のように慕っていたのだ」 微笑んで語るアグラの目は遠く、この場にいる誰もを見ていない。 「人外の力を畏れられ、三英雄と持てはやされても、私たちも所詮は人だ。人並みに忘れる。  辛いことも悲しいことも、時の流れの中、過去の思い出にしてしまう。  あの戦いから数十年だ。今にして思えば――今思うからこそ言える」 一呼吸置いて、アグラは口角を上げた。 「楽しかったよ。多くの犠牲が出た。過酷な戦いだった。  だが私たち三人で、同じ目標を目指して全力を尽くした日々は、楽しかった」 アグラの笑顔はアズレッタにも理解できた。 アグラ運送協会衛士の離職率は低くはない。 身体一つで金と名誉を得るチャンスのある仕事ではあるが、その身体を酷使する命がけの仕事でもある。 加齢による衰え、怪我、その後遺症――様々ある衛士を辞める理由の中で、 意外に多くを占めるのが、心が折れてしまったというものだ。 盗賊の剣に大怪我を負わされたことがきっかけで、他人の握る刃物に耐えられなくなり、床屋に通えなくなった者。 狼型の魔物の襲撃から命からがら逃げ伸び、室内外の小型犬にすら失禁するほどの恐怖を覚えるようになった者。 すぐ隣で殉職した仲間の死に様が忘れられず、不眠の病を患って身体を壊した者。 それこそアズレッタのような一握りの腕利きの戦いを間近に見て、己の限界を悟ってしまった者。 扶助は手厚く金払いも良いが、それはそうしなければならない理由があるからだ。 運送協会衛士は楽な仕事ではない。 一方で、衛士の仕事に固執する者も少なくはなかった。 齢五十を数えながらも現役の衛士として仕事をするため、平時の体調管理がむしろ病的に執拗である者。 利き腕を失ってなお残った逆の腕を鍛え直し、隻腕で意気揚々と仕事に復帰した者。 十二分に過ぎる実力と功績がありながら、仕事をする機会が減るのを嫌って進級の推薦を蹴り続ける者。 何度も大怪我をして、それでも傷が癒えたなら当然のように旧街道に戻ってくるアズレッタも、この類の人間だろう。 辞める理由がそうであるように、辞めない理由も様々である。 アズレッタのように仕事を通して成し遂げたい目標があったり、単に大きな稼ぎを失いたくなかったり、 人によって異なるその理由に、『達成感』を挙げる者は多数派のようだ。 信頼の置ける仲間たちと力を合わせて障害に立ち向かい、その結果として金と名誉を得る。 その一連の流れを尊ぶ者、 報酬それ自体ではなく、報酬を得るための行動まで合わせて価値を見出す者、 過酷なはずの衛士働きにやりがいを感じる者は、確かに存在する。 困難を打ち破ること。 例外と程度の差は多々あるだろうが、それは基本的には快感だろう。 ならばそれを追い求めること、そのために苦労すること、 その全てをひっくるめて『楽しい』と形容すること、 アズレッタはそれを疑問には思わない。 「私の本心はそんなところだ。だから、ある程度――いや、割と大体のことは開き直れるし、それほど後悔もない。  あの戦い、どうしても犠牲は出た。いかに私たちが強かろうと、現実問題として守れないものはある。  失われたもの全て、そのひとつひとつに対して均一に気に病んだりはしていないのだ。  言い方は悪いが、それが今の私の本心だし、当時の私も似たようなものだった。  ――それでもなお、たった一つだけ、どうしても許容できなかった犠牲がある」 「それは……?」 「ランスローだ。私たちはあの戦いで、ランスローを失ってしまった」 微笑みを消し去ったアグラの言葉に、アズレッタはごくりと喉を鳴らした。 過去、アグラはランスローとの別れについては『ランスローが去った』としか語らなかった。 決して死んだとは言わず、しかしどのように別れたのかを語らなかった。 幼少のアズレッタが何度ねだってもアグラは困ったように笑うだけだったし、 それから時を重ねたなら、今度はアズレッタの方に分別がついて、詳しく聞くことができずにいた。 これまで知ることができなかった、三英雄の伝説の闇。 「出来事それ自体は単純だ。ランスローの故郷が滅んだ」 アグラが言い、アズレッタとアルベルトの視線がマリーを向く。 これにはマリーも無表情を崩し、ぽかんと口を開けてしまっていた。 「マリー……?君の故郷は、滅んだのか?滅んだことがあるのか?」 「いいえ……?」 「すまん、異世界側の話ではない。こちらでの故郷だ」 軽く頭を下げ、アグラは続ける。 「先に話した通りだ。三英雄が三人で行動していたのは三年に満たない。  そして、ランスローがこの世界にやって来たのは、私たちと出会う七、八年ほど前だったそうだ」 アズレッタとマリーが視線を交わす。 『ススケムリ』の代官に借りた風呂の中で聞いたマリーの言葉。 未だ会話もつかえながら話すマリーが実に流暢に紡いでみせた、ランスローの言葉。 『俺の人生は、先の十五年でもなく、後の五十年でもなく、あの大陸で過ごした十年にこそあったのだ』 アズレッタの方も良く覚えている。 ランスローがアグラたちと出会う前に七年、出会ってから三年程度を過ごしているのなら、 それはマリーの口を介して聞いた、ランスロー自身の発言とおよそ一致する。 「つまり、滅んだランスローさんの故郷と言うのは、彼がお婆さまと出会う以前に滞在していた?」 「そうだよアルベルト。ランスローには私たちと出会う前の七年を過ごした故郷があった。  北の山奥にある小さな村でな、私たちも何度か訪れたが、なかなか面白いところだったよ」 アグラがわずかに口の端を吊り上げる。 「他所との交流もろくにない小村だったのがかえって良かったのかも知れない、  ランスローの持ち込んだ様々な異世界の品が、こちらで出来る範囲で再現されていてな……  君たちはトイレで用を足した後、噴水に尻を洗われた経験はないだろう?」 「ふ、噴水……!?」 「そ……それは、合理的……といえば、そうですね……?」 「わたし、あります」 アズレッタとアルベルトが驚愕を隠さずマリーを見て、マリーはわずかに苦笑いをして頬を掻いた。 「面白いだろう?驚くべき発想だが、どうやら積み重ねて来た年月が違うらしい。  この世界も旧帝国が滅びて後、千年以上の歴史を重ねて来たが……  ランスローの国の暦は、年数が千と九百を超えていたそうだからな」 「はい。わたし、ф□△Θ□Σ△……あー……神……大工……あー……元、基点、基準。ん、基準。  基準から二千三十五……?二千、五十三……?あー、あー……」 「いえ、大丈夫です。暦を数えて二千年近いと言うのでしたら、  この世界、この場合では、下二桁は誤差です」 「数の数え方は復習だね……それにしても、二千年か。  マリーの持っている不思議な道具も、それだけ年月を重ねれば作り出せるのかな」 デコトラはランスローが作ったゴーレムなのだろうから、理解が及ばずとも納得はできるが、 それ以外の物品にゴーレム技術なり魔法なり、旧帝国が関わっていないことを、アズレッタはとても信じられずにいた。 が、そこへ二千年という年月を持ち出されては頷かざるを得ない。 この千年で人々の生活は豊かになった。 庶民の服屋にも選びがいのある衣装が並び、安いパンにも砂が混じることはなく、領都のトイレは九割以上が水洗式だ。 栄華を極めた旧帝国の魔術のほとんどを失ってなお、人類は千年でここまで文明を盛り返した。 遠く語り継がれる前旧帝国時代、 人類が毛皮をまとって石槍を振り回していた時代にまで逆戻りしたわけではないにせよ、 旧帝国が失われたところで、千年も時間があったのなら、人はここまで辿り着くのだ。 そこにもう千年もの時間が足されたのなら、人はどこまで突き進んでしまうのか。 アズレッタにはそれを予想することができない。むしろどの辺りなら届かないのかとさえ考えてしまう。 中身のカレーシチューを腐らせない袋詰めの手法や、あのやたらと軽い鍋やフライパンも、千年あれば完成するのだろうか。 「ランスローが故郷と呼ぶ、その村への愛着は人一倍だった。  何があったのかを見たわけではもちろんなく、いくつかの話を聞いただけだが、それとわかった。  ……それはそうだろう。言葉すら通じない異世界に、身一つで放り出されたところを救ってもらったのだ。  それは恩義を感じよう」 アグラの言葉に、率先して頷いたのはマリーであった。 ランスローを嫌っているはずの彼女の行動を意外に思うアズレッタであったが、同時に納得もする。 マリーとて、異世界でそれなりに苦労しているところはあるはずだ。 彼女はそれをまるで表には出さないが、例えばこの屋敷で過ごした十数日におけるマリーの日課に、洗濯がある。 異世界の品に触れる者を不用意に増やせば、不要のトラブルに見舞われることもあるだろう。 それはマリーとアズレッタの共通見解であった。 そのためマリーは、自分の下着や肌着の類だけは自分で洗っていた。 つまり彼女は、大陸の下着を身に付けたがらない。 普段着についてはアズレッタとステファニーが用意したものを楽しそうに選んでいるが、 下着だけは持ち込んだものを日常的に着用している。 アズレッタから見た異世界の下着は、良く伸びて良く支え、着脱も容易と、極めて機能的で、また扇情的だった。 であるからして、その形状はアズレッタらが普段身に付けるそれとは大きく異なっている。 これに慣れ切っているのなら、それは大陸の品には抵抗も持つに違いないと納得するほどに。 マリーが大陸の下着を付けたがらないのと同様、アズレッタも異世界の下着を付けるのは遠慮したい。 自分が今まで生きてきたそれとは文字通り異なる世界で暮らすのだ。 覚悟の内外で、相応の苦労は絶対にある。 だがそれは、かつてのランスローを思えばないも同然の苦労だろう。 マリーには転移直後からデコトラという規格外の力があったし、最初期からアズレッタの支援があった。 金も名声も――自己評価はともかく――欲しいまま、 人ひとり養うことなどわけもない力を持つ、異世界から来たという与太話を全面的に信じて動く協力者だ。 何より、マリーは大陸共通語を話すことができた。 拙い発音に貧弱な語彙で、それでも人と会話をすることができた。 マリーが元から持っていたこれらの全てが、ランスローにはなかったはずだ。 まさか一糸まとわぬ全裸で大陸に放り出されたとも思えないが、 自身の他に頼れるものがない、他人との意思疎通すら困難な状況で、よくも己が居場所を確保できたものとアズレッタは思う。 あるいはマリーがアズレッタと出会うよりも、ずっと稀な幸運だったのではないか。 「そんな第二の故郷が、滅びたと?」 「ああ。魔王の翼を奪って叩き落とした先、決戦の地となった山岳地帯が、ランスローの故郷に近かった。  ――いや、あれを近いとするのは抵抗がある。十分な距離があったと言って良い。そのはずだ」 そこまで言ってアグラは黙り、やがて「言い訳だな」とかぶりを振る。 「何を言っても言い訳になる。戦いの最中、魔王が苦し紛れに吐いた熱線の一発が、村に届いてしまった。  流れ矢が当たったのだ」 わずかに顔をしかめて、苦々しくアグラが言った。 「熱線は距離を経て威力は減衰していたが、なまじ弱まっていたのが悪かったという見方もあろうか……  被害は大きかったが、生存者はいたようだ。  だが熱線は村へ向かうためのほとんど唯一とも言って良い山道を潰し、  元より他所との交流が少なかった小村の被害は伝わるのが遅れ――」 アグラたちがその被害を知ったのは、決戦の後から一週間近く過ぎた日のことだったという。 人の頭のような拳を握り締める音が、アグラ以外の耳にも聞こえるような静寂。 「あの時、わずかでもランスローの村を救えるとすれば、それは私たち以外にいなかった。  魔王との決戦は激しくも、一時間と続かなかったのだ。私たちは深く傷つくも、自分の足で凱旋したのだ。  あの戦いの直後、熱線が飛んだ方向に村があることに気付けていたのなら、結果はまるで違ったものになったろう」 アグラは目を伏せ、ため息とともに続ける。 「だが、誰に幻滅されるとも本心を語ろう。――無理だ。絶対に不可能だ。  あの時、そんな気が回る者は、私たちの中にはいなかったのだ」 語るアグラはあくまで落ち着いた様子であったが、アズレッタにはむしろそれが痛々しく感じられてしまう。 例えばアズレッタが人殺しを経験した時がそうであったように、 こうしてよどみなく状況と心情と結論を語れるほどに、自問自答を繰り返したに違いなかった。 「繰り返すが、犠牲となったのはランスローの村だけではない。  被害の規模ならばずっと上を行く事例はいくつでもある。  それだけの多数、それほどの犠牲の果てに、その原因たる魔王をついに討ち果たした直後だったのだ」 アズレッタにはアグラを責めることは決してできない。 人類を長年苦しめてきた魔王をついに討伐したのだ。 どうして歓喜以外の感情を抱けようか。 熱線の去った方向など、それがもたらす被害など、どうして意識できようか。 「村のことを知った私たちは、急ぎ生存者の救助に向かったが、満足な働きはできなかった」 村の被害の報を受けたのは、皇帝より魔王討伐の褒賞を授かるべく帝都へ移動していた道中のことだったと言う。 アルフレッドは黙って目を伏せ、アルベルトは胸の辺りを押さえ、アズレッタは下唇を噛み締めた。 アグラ運送協会を興し、盛り立て、その力を誰より理解している一族であればこそ、 当時のアグラたち三英雄が味わった絶望を理解できてしまった。 準備が必要なのだ。 この手の支援行為、救護活動には、入念な事前準備が絶対に必要なのだ。 運送協会が大陸各地で運用する、物資集積地をはじめとする拠点の数々は、 緊急時においては支援物資の備蓄庫、人員の待機場、難民の避難所、情報の連絡網としても機能する。 発生した事象に対する判断基準や対応時の指揮権限といった仕組み作りまで含めて、 アグラ運送協会が長い時間をかけて洗練してきた、有事への備えである。 それは――不謹慎な仮定ではあるが――災害への対応の質を比べるとして、 その相手が三英雄であろうと敗北は許されないと運送協会が自負する部分であり、 また敗北があり得ないことを確信するものでもあった。 いかに強力無比な魔法を駆使する三英雄にも、限界はある。 彼らの名声と実力をもってすれば、その辺りの適当な市街やら村落やらから 人や物を自発的にでも強制的にでも掻き集めて、何もないところからある程度の体裁を整えることは可能だろう。 だが世間のいかなる悪評にも屈さずそれを強行したとして、 そんな急ごしらえがあらゆる面で、運送協会の日頃の備えに及ぶはずがない。 世には用意しなければ存在しない物があり、訓練しなければ実践できない行いがある。 三英雄の孫の立場にあり、三英雄の魔法にも詳しいアズレッタならば、 より具体的に彼らの緊急支援が失敗する絵を描くこともできる。 ガレオンの魔法『戦神』には発動条件があり、このようなケースでは使えない。 ランスローの魔法『大軍』には制限時間があり、まる一日は持続しなかったと聞く。 『巨人』であるアグラとて、運べる荷の量に限りはある。それを詰める袋や、載せる台車ならなおさらだ。 少なくとも『移動だけで何日もかかる離れた土地に、大量の物資を届けたい状況』において、 三英雄はそれほど役に立たない。 運送協会そのものがない当時においては、彼らはほとんど何もできなかっただろう。 「村の惨状を目の当たりにし、そこで起こった出来事を察して、  友を、恩人を、養父母を弔って、恋人を見送り――  ランスローは泣いて、泣いて、泣いて、何日も何日も泣き続けて、やがて唐突に姿を消した」 閉じていた目を再び開き、アグラは続ける。 「私たちは彼の身を案じて、片時も目を離さなかったが、誰もその行方を知る者はいなかった。  ……根拠はないが、元の世界に帰ったものと信じたかった」 自分たちの前から姿を消そうとしたとして、その行き先がこの世だろうとあの世だろうと それを決して許さない、決して彼を逃がさない構えであったとアグラは言う。 そんな仲間の目を掻い潜り、ランスローは姿を消したのだ。 この世の者たちの前から消え、あの世に向かったわけでもないのなら、 行く当てはそれらとは異なる世界だと信じたかったとアグラは言う。 「いっそランスローは魔王を倒す使命を帯びてこの世界に現れ、  魔王を討ったことで役割を終え、元の世界に帰ったのだとでも思いたかったが……  彼が異世界から来た理屈の一切を知らずとも、それだけは絶対に違うと断言できる。  彼は討伐の後も何日もこちらに留まり、故郷の崩壊をしっかりとその目に焼き付けたのだから」 他に何の理由があるものか。世界がランスローを捨てたのか、ランスローが世界を捨てたのか、 どちらにせよそのきっかけは、あの絶望に違いない。 「あの絶望がランスローと世界を別ったのなら、私たちの存在は、それを繋ぎ止めるに至らなかったということ。  二度目があるとは思わなかった。  だが、このまま何もせずにいたのでは、この悲しさと悔しさに耐えられない。  だから私たちは行動を開始した」 魔王討伐の功績と貴族籍を用いてガレオンが領地を得て、アグラが自由に活動する土台を作る。 アグラは己が名声と剣腕を存分に活用して仲間を集め、運び手と護衛を一括管理する大規模な運送業を立ち上げる。 いずれ大陸の各地に、迅速に人と物を送り込むための仕組みのひな形。 それがあり得ないことはあらゆる意味で承知の上で、 もう一度ランスローが現れて、またしても故郷を焼かれたのなら、 今度こそはそれを救うためのシステム。 「それがアグラ運送協会だ。  決して訪れることはないのであろう、二度目に備えるための組織なのだ」 アグラはそこで姿勢を正し、真っ直ぐマリーを見据えて続ける。 「言った通り、目標は成った。協会が生み出す利益は莫大なものであるし、  作り上げた仕組みは、私たちと似た境遇の人間を助けることもあるだろう」 しかし自分とガレオンの望みは、あくまで現実逃避だったとアグラは語る。 次が訪れるなら。もう一度機会があったなら。 それを絶対に逃さないための準備を進めることで、自分たちの心を慰めていただけなのだと。 「既に滅んだランスローの故郷が、二度滅ぶことなどありえないと言うのにな」 小さく鼻を鳴らし、アグラはマリーへ問いかける。 「……マリーよ。ランスローは」 「死にました」 アグラの話を聞きながら、いつの間にか無表情を取り繕い直していたマリーは、 その仮面の奥で何を考えていたことだろう。 特にためらう様子も見せず、はっきりとした口調で返答してみせた。 アグラは鼻から大きく息を吸い込み、天井を仰いで目を伏せ、そのまましばらく動かずにいた。 マリーと出会ってすぐのように泣き出しはしなかったが、何かをつぶやくようにゆっくりと口を開き、 しかし特に声を出すことなくすぐにそれを閉じて、やがて深く肩を落とし、うなだれた。 「そうか……」 ただ一言、それだけを口にし、自分の腹に顔を埋めるかのようにして黙り込んでしまう。 二十年の人生で初めてのことだった。 アズレッタの目に、これほどまでに祖母の身体が小さく映るのは。
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