第一話 異郷の少女

1/1
12人が本棚に入れています
本棚に追加
/29ページ

第一話 異郷の少女

数日ぶりに良く眠った。 目を覚ましたアズレッタは、他人事のようにそう思う。 ここ三日は荷を届けるための強行軍で、あまり満足には眠れていなかった。 運送協会の仕事をしていれば不規則な睡眠など慣れっこではあるが、 それでも――いや、だからこそ、思う存分眠った後の目覚めは爽快だ。 「…………」 ぱちぱちと目を瞬かせた後、ゆっくりと首を回して辺りを確認する。 飛び乗ったゴーレムの荷台の上なのは変わらないようだが、 昨夜と違って中途半端に幌が張られていた。くすんだ緑の布。 細い支柱に渡された布は空を隠して日陰を作り、アズレッタの快眠の一助となったようだ。 時刻は正午をやや過ぎた程度だろうか。それなりに長く眠っていたらしい。 四肢には打撲の痛みが少し残っていたが、鬼型とやり合ってこの程度の傷で済んだならば上等だろう。 問題なく身体が動くことを確認しながらアズレッタは身を起こし、 そこでようやく自分が眠っていた荷台に、柔らかなマットが敷かれていたことに気付いた。 上等なベルベットのような滑らかな肌触り、中には何が詰まっているのかふかふかで、 とても野営に用いるものとは思えない。 アグラ運送協会の娘であるアズレッタは、平時はそこらの貴族などよりよほど良い暮らしをしているが、 そんな彼女の自室の寝具にもひけを取らない寝心地である。 上体を起こしたアズレッタは、自分の周囲を見渡す。 荷台には何が入っているのか箱や布袋がいくつもあり、 その中に混じってアズレッタの持ち込んだ大剣と鎧櫃。 ふたを開けて中身を確認するが、鎧の部位に足りないものはない。 続いてアズレッタは全身をまさぐる。 護身用に仕込んだ数本のナイフも、服の上から四肢を飾る白金製の腕輪、足輪もそのままだ。 緊急時に備えて金貨も入れている財布の中身も、記憶の中の残高から減っていない。 眼鏡もマットのすぐそばにある。下に畳んだハンカチが敷かれていた。 アズレッタをマットの上に寝かせ直し、起こさないよう幌まで張った何者かは アズレッタの持つ貴重品にはまるで手を付けなかったらしい。 静かに大剣の柄を持ち上げながら、 アズレッタは幌布の張られていなかった一辺から外を確認する。 見覚えのある景色だった。 あの森を突っ切る旧街道を抜けた先、 目的の町への最短ルートからはだいぶ外れた位置にある、街道沿いの休憩所。 草原のごく狭い範囲の草を払って踏み固め、近くの川から細い水路を引いたキャンプ場だ。 かつて行軍のために大陸中へ長大な道――現在の旧街道を張り巡らせた旧帝国は その先々で軍を駐留させるため、道沿いにこのような広場をよく作ったと伝わっている。 品質は旧帝国の作る休憩所とは比べるべくもないが、 現代の人間たちもそれを真似、自分たちの作った道沿いにこのような広場を作るのだ。 アズレッタのように物流に携わる人間や、旅人たちの憩いの場所である。 「……あれが、ゴーレムマスターか?」 アズレッタがつぶやき、拾い上げていた銀縁の丸眼鏡をかけた。 視線の先に、こちらに背を向けて焚火の番をする人間がいる。 一目でそれとわかる小柄な人間だ。断言はできないが、恐らくは女。 目を惹くのは腰まで伸びた黒髪だ。広場のすぐそばの水路から吹く風にサラサラと揺れて輝く。 黒髪とは珍しい、とアズレッタは思った。 この国の外から来た人間か。あるいは良い染め薬をふんだんに使える、自分のような良家のお嬢様か。 衣服もあまり見慣れない、ほとんど黒といって良い濃い紫の上下。 ふちを白線で彩った、背中の中ほどまで届く大きな襟が特徴的だ。 髪といい服といい、変わった格好をしている。 だが考えてみれば、あの人間は少なくとも人を二人乗せて馬車より速く走る 超高性能なゴーレムの持ち主、腕利きのゴーレムマスターであると推察されるのだ。 そんな傑物に当たり障りのない格好をされてもつまらない。アズレッタは口の端を吊り上げた。 非日常の予感がする。もしかしたら、昨夜以上の。 アズレッタは一度は握った大剣を再び荷台に放り出し、ひらりと身軽に荷台を降りた。 * * * * * ゴーレムマスターがアズレッタに気付いたのは、アズレッタが相当に近づいてからだった。 ずいぶんと警戒心のないことだとアズレッタは思う。 「……!あ、う……」 「落ち着いて下さい、恩人に危害を加えるつもりはありません」 ぱっと立ち上がったゴーレムマスターに対し、意識して微笑みながらアズレッタは言った。 言葉は、心持ちゆっくりと話す。昨夜のゴーレムから聞こえてきた、下手くそな発音を思い出したのだ。 少し顔を赤くしてあたふたと口だけ動かす少女の顔立ちを見て確信する。 大陸の外から来た人間なのだろう。言葉も不自由であるはずだ。 ゴーレムマスターはやはり女だった。アズレッタより三つ四つは年下と思われる、若い娘。 化粧っ気のない、整ってはいるが彫りの浅い顔立ちをしている。 明らかにアズレッタとは違う土地で生まれた人間か、その血を引いているように思えた。 「――昨夜はありがとうございます。アグラ運送協会一級衛士、アズレッタです」 アズレッタは簡易な身分証明である首飾りを見せた後、丁寧に頭を下げる。心からの感謝を込めて。 あの場でゴーレムと彼女が乱入してこなければ、自分が今日の太陽を見る可能性は、甘く見積もって五分であったろう。 アズレッタが顔を上げても、少女はまだ口を開け閉めしていた。 幼い頃、祖母が見せてくれた東の地の珍しい小魚をアズレッタは思い出した。 ゆらゆら揺れるヒレが美しいあの真っ赤な魚も、 小さな水槽の水面近くでこのように口をぱくぱくさせていた。 「アグラ……!?あ……あー、§●Λ●ф△――Λ△±●◆、えー……わたし、Γ●Θ△、……です」 「……」 「えー、あー、あー……Γ●Θ△。わたし、Γ●Θ△、です。Γ●Θ△……」 「ああ――申し訳ありません。大丈夫、マリーさんですね」 「…………はい。わたし、マリー、です」 マリーと名乗った少女は、どこか釈然としない顔で頷いた。 「あの場にあなたとあのゴーレムが来なければ、私は今頃どうなっていたかわかりません。  本当にありがとうございます」 「ゴーレム?……ああ、Λ▼Θ●Λ◆Σ◆……はい、どういたしまして。  あなた、会って、良いかった、です。わたし、も」 「ふむ……?」 マリーの話す言葉は流暢ではなかったが、こちらが言っていることはわかるようで、 意志を伝える分には不自由はなさそうだ。 ろくに言葉が通じない可能性も考慮していたアズレッタがほっとする前で、マリーは背中の焚火を指差した。 「話す、話、あー……相談?あるます。食べ物、水、渡す。話す、良いですか?」 「喜んで」 「水、です」 焚火のそば、丸太を寝かせただけのベンチに腰を下ろすと、マリーが水の入った容器を持ってきた。 青色のふたがついた、透き通った透明の瓶。礼とともに何気なく受け取り、そこでアズレッタは驚愕する。 「何だ、これは……」 透明なのだからガラス瓶かと思っていたが、 手に取ったそれは常識外れに軽い。中の水の重さしか感じないではないか。 またそれは非常に薄く、アズレッタが握っただけでわずかに形状を変えるほどだった。 一方で容器は頑丈でもあるようで、強く握りしめてみても穴が開いたりする気配はない。 どのように開けるのかとマリーを見上げると、その視線に気づくことなくマリーは 中身が半分以上減っていた自分の分の容器のふたをひねって開け、中の水を全て飲み干し―― ぐしゃっ。アズレッタが止める間もなく、空の容器を両手で握り潰してしまった。 「ああっ!?」 「ひゃっ!?Ξ●、Ξ●Ξ△……あー、何、ですか……!?」 「あ、いや、すまない……いえ、申し訳ありません。珍しい瓶だと思っていたので」 「瓶?これ?Ψ□Λ◆Λ▼ζ▼Λ▼Θ◆……」 「ペットボトル」 アズレッタがオウム返しにつぶやき、手元の容器のふたをむしり取る。 容器と同様に透明な中身は、マリーが言った通り水だ。雑味のない、美味い水である。 魔法の補助があったとはいえ、命懸けの戦いの後に休みなく走り続けた体は相応に乾いていたようで、 拳二つを連ねたほどの大きさがあった容器――ペットボトルの中の水を、アズレッタは一息に喉に流し込んだ。 「ペットボトル……」 空になったそれをマリーのように握り潰すのは容易いが。 アズレッタはちらり、とマリーの方に目をやる。マリーは明らかに戸惑っていたが、 「欲しいでしたら、渡す……あー、あげる。あなた、使う、良いです」 「本当ですか!?ありがとうございます!」 アズレッタは喜び勇んで空のペットボトルにふたをした。開けた時とは逆に回すとふたは閉まった。 アグラ運送協会には戦いで名を上げるために入会した、物流そのものには興味が薄いアズレッタだが、 それでも生家の家業であるためか、こういったものには食いついてしまう。 このペットボトルひとつで出来ることはたかが知れているだろうが、 これが大量にあったとしたら、酒や調味料、様々な液体を運ぶには便利だろう。 四頭立ての大馬車や船での大量輸送ならば、中身が重くなっても転がして運べるタルの利便性に軍配が上がるか。 しかし市場や街中を人の足で運ぶのであれば、容器自体の軽さ、頑丈さは大きなメリットだ。 これを持って帰ったならば、父や兄弟は自分以上に驚くに違いない。 「わたしの国、それ、使う終わった、捨てる、ですよ」 「それは……何とももったいない話ですね。洗ってまた使ったりはしないのですか?」 「Θ△ф●△Σ◆Θ◆、します」 「リサイクル……?」 アズレッタの疑問には答えず、マリーはところどころがペットボトルのように透明になった、 大小様々な大きさの文字が書かれた袋を破り開いた。字はどれもアズレッタには読めない。 鈍く銀色に光る深皿に、その中身を取り出す。 からころと乾いた音を立てたそれは、 親指ほどの太さ、大きさに焼き固められた、四角いビスケットに見えた。 袋の七割ほどを移した皿を、マリーはアズレッタの前に「食べ物」と差し出した。 「いただきます」 こうも不思議な状況にあっては、毒を盛られる心配をしても仕方あるまい。 そもそも既に差し出された水を一気飲みしてしまっている。 これを食べたことで死んだとしても、まあ、仕方ないな。 そんなと思いながら、アズレッタはビスケットを一つ口に入れた。 最後に食事をしてからだいぶ時間が経っている。固形物を食べられるのはありがたい。 ビスケットはアズレッタの良く知る協会のそれとは比較にならない歯触りの良さだ。 硬いことは硬いが、歯を立てればぼりぼりと噛み砕くことができて、スープに浸したりせずとも問題なく飲み込める。 ほんのりと素朴な甘さに練り込まれたゴマの風味が効いて、なかなかに美味だ。 運送協会のビスケットが全部これになればいいとアズレッタは思った。 ただしビスケットの常か、口の中の水分は容赦なく持っていかれる。 先ほどの水を飲み干してしまったのは失敗だった。お代わりをもらえないか、 駄目ならばそこの水路から汲んでこようかと顔を上げたアズレッタの前に、マリーがペットボトルの水を差し出す。 先ほどのペットボトルよりだいぶ大きい。三、四倍はあるだろうか。 中身の半分ほどは既になくなっていて、 それは焚火にかざされて湯気を吹くやかんの中身に使われたのだろうと察しはついた。 マリーはアズレッタの皿と同じ金属のマグカップを二つ取り出すと、 おもむろに銀色の小袋を破り開け、中身の黄色い粉末をカップに注ぎ込む。 見守るアズレッタの前でそのマグカップにやかんの湯を注ぎ、 小さなスプーンでかちゃかちゃ音を立てながらかき回すと、辺りにふわっと甘い香りが漂い始めた。 「スープ」 マリーがスプーンごと手渡したカップの中身を覗き込むと、中には黄色いとろっとした液体が芳香を放っている。 火傷に注意しつつ口を付けると、塩気の中にはっきりとした甘みとミルクの風味。 この国では乳を使ったとろみのあるスープを特にポタージュと呼び、 アズレッタの実家でもじゃがいもやかぼちゃのポタージュがよく供される。 このポタージュは初めて飲んだが、味には覚えがあった。 「美味しい……!とうもろこしのポタージュだ……!」 「あ、知っているですか」 「ポタージュはよく飲みます。とうもろこしを使ったのは初めてですが」 「わたしの国、ポタージュ、これ、みんな、好きです。あー……人気、あるます」 「へえ……」 目の前の少女が粉末に湯を注いだだけでそれを作った事実を意識の隅に追いやって、 アズレッタはポタージュスープとビスケットと水をあっという間に平らげた。 袋に残ったビスケットを自分の分のスープで流し込みながら、 マリーはその様子をにこにこと眺めていた。 「命を救われた上、こうも美味しい食事まで!ありがとうございます、マリーさん!」 「マリーさん、いる、ないです。マリー、良いです」 食餌の後片付けを終え、再び頭を下げたアズレッタに対し、マリーははにかみながらそう言った。 「言葉、普通、良いです。丁寧、言葉、いる、ないです――いらないです。  ゆっくり、いらないです」 「……ふむ、呼び捨てで良い、普通に話して良い、と?」 「はい」 「そうですか――例えば、私がこんな風に話しても大丈夫か?  聞き取れなかったり、気を悪くしたりはしないかな?」 「大丈夫、です。私、聞く、得意です。話す、下手です」 「ふむ……それが望みであるならば。では、改めて……マリー、話をしよう」 頷くマリーの目を見つめ、アズレッタは咳ばらいを一つした。 「マリー、君は私に『相談がある』と言った。まずはそれを聞かせてくれないか?」 緊張した面持ちでアズレッタは切り出す。 今のアズレッタは仕事中の身である。 本来ならば一刻も早く仲間に無事を知らせたい。 それどころか、自分が身を挺して逃がした仲間たちが、だからといって無事である保証もないのだ。 万一逃がした先で新たな魔物に襲われ、輸送が失敗しているのであれば、生き残りとしてその事後対応も必要になる。 しかし、だからと言って恩人の頼みを断るような真似はアズレッタにはできなかった。 自分を窮地から救ってくれたマリーの願いであれば、可能な限り聞いてあげたい。少しでも恩を返したい。 だから、まずはマリーが何を望んでいるのかを知ることだ。 その内容次第では、今の仕事を一通り片付けてから対応することもできるかも知れない。 だが、目の前の少女はアズレッタが今まで聞いたこともないような高性能のゴーレムを操るゴーレムマスターである。 この国の人間でもない。未知の言語を話し、未知の道具を使い捨てる。 いったい何を望んでここにいるのか、何を思ってアズレッタを助けたのか、まるで見当もつかない。 「わたし、は――」 マリーの薄い唇が言葉を紡ぐのを見て、アズレッタはごくりと喉を鳴らす。 何が望みなのか。何を頼もうというのか。 「――他の人、いる、場所、行きたいです」 「は?」 「わたし、困るます。ずっと今、変わる、ない、困る。  あー……わたし、わかるないです。何も」 マリーの言葉はつたなかったが、とにかく困っていることだけは、その表情から伝わってきた。 「わたし、どうやって、ここに来た、わかりません。  わたし、どうして、ここに来た、わかります。  わたし、わたしの爺、頼むされて、ここに来た、です」 「今のはわかった。  マリーは、マリーの祖父の頼みでここに来た。が、ここに来た手段まではわからない」 伝わったことが嬉しかったのか、少し表情を明るくしたマリーに対し、アズレッタはふむと鼻を鳴らした。 例えば寝ている間に船に乗せて川に流したとかと言うならまだわからなくもないが、 この辺りは川や水路はそれなりの規模、それなりの数が存在しているも、海まではだいぶ距離がある。 先の食事でも、マリーは『わたしの国』という発言を何度かした。 彼女は明らかな他国の人間だ。 よその国から他国の内陸に、当事者にその方法もわからせないまま、人を送り込む手段があるものだろうか。 マリーの祖父は、そのような行いを可能とする魔法の使い手なのか、 あるいは、あの荷車型のゴーレムに何らかの秘密があるのか。 「わたしの爺、あー、祖父、ここの言葉、教えるました。  Λ▼Θ●Λ◆Σ◆、動く、方法、教えるました。  その他、全部、教えるないでした」 「君の祖父は、君にこの国の言葉と……トラック?あのゴーレムか?  えーと……言葉と、ゴーレムの動かし方を教えてくれたが、それ以外は何も教わっていない」 「はい!……わたし、ここ、知る人、いません。お金、ないです。  でも、食べ物、水、少ないです。ずっと今、困るます」 「ああ、なるほど……この国に頼れる知己がいるわけではないけれど、  それでも手持ちの食料に余裕があるわけではないから、  ずっとこのままここで野宿を続けるわけにもいかない……と」 「はい!そうです!ずっとこのまま、困るます!」 マリーが喜色満面でぶんぶんと首を縦に振る。 「わたし、祖父、ここ、送られました。  でも、ここ、どこか、わかるません。夜、なりました。  道の上、走りました。あなた、いました」 「ここがどこかわからないなりに道沿いに走っていたら、私がいたと。  どれだけ走ったか知らないが、よく無事でいたね。あそこは旧街道だというのに」 「旧街道?古い道、ですか?」 小首を傾げるマリー。アズレッタが驚きに目を見開く。 「…………旧街道を、知らない?」 「はい?はい。知るない、知らないです。私、何もわかるません」 「……ふむ。まとめると、君は君の祖父によってここに来た。  だが君はここがどこなのかわからない。  この辺りのこともよく知らない。ので、とりあえず人里に行きたい」 「はい!」 「君の祖父が何者なのか、大変に気になるところだけど……  とりあえずそういうことなら、心配はしなくて良い。  ここから二日もしないところに町があるんだ、行く当てがないならそこに行こう。  むしろ私もその町に用があってね。とりあえずそこまでは、私が責任を持って君を送り届けるよ」 アズレッタは街道の先を指差した。 近くに町があると聞き、マリーは見るからに安心していた。 力が抜けたように肩を落とし、ほああ、と息をついている。へにゃりとふやけた表情が可愛らしい。 安心したのはアズレッタも同じであった。 向かおうとしている最寄りの町は、アズレッタと仲間たちが薬を届けようとしていた町である。 これで仲間の安否も、輸送の成否もわかるはずだ。 しかし、アズレッタは表情を強張らせたままだった。 祖父によって見知らぬ土地に連れて来られた。その方法は、全くわからない。 滅茶苦茶な話である。 己の成長のきっかけを求め、時に自ら厄介ごとに首を突っ込むこともあるアズレッタとて 常であれば狂人のたわごとと相手にしなかったであろう。 しかし、単なる頭のおかしな人間と切り捨てるには、マリーの周囲には奇妙なものが多すぎた。 彼女がトラックと呼んだあの荷車型のゴーレムに始まり、 透明な軽量の容器ペットボトル、湯に溶かすだけで美味なスープに変わる粉末。 後片付けに用いた半透明の袋も、何の繊維でできているかわからないたわしも、 異様なまでに泡立って必要以上に手の脂を持っていく石鹸水もそうだ。 アズレッタがこれまで、作り話にすら聞いたことのなかった品々である。 そしてマリーは、これまで自分が『どこから来たのか』を話していない。 マリーは度々、アズレッタが理解できない言葉を口にした。彼女の出身地はどこにあるのか。 その正しさを確かめることは現代においては困難となってしまったが、 およそ世界の全貌と呼べるものは、数千年前に旧帝国が暴いてしまっている。 この大陸に名前はない。この世界に、ここ以外の大陸がないからだ。 他の大陸が存在しないので、大陸に名を付けて区別する必要がない。 人類の住まう土地はこの大陸を除けば、その周囲に点在する島々だけ。 それぞれに広さは異なるが、大陸と比較したならば、そのどれもが島と表現して差し支えない。 旧帝国の時代から伝わる世界地図において、世界とはそのようなものと描かれている。 記載されている大陸の形状、島の位置関係等は、確認できる限り極めて正確なものなので、 恐らくは正しい世界の姿が描かれているのだと、人々には信じられている。 アズレッタが全く理解できない言語を話す人間がいたとして、 普通に考えれば、それは大陸周囲の島国からやって来た人間であるはずだ。 だがアズレッタの知る限り、それらの島々がマリーが持っていたような道具を使っているという話はない。 旧帝国が滅んだ後にあってなお、人類の英知の最先端は大陸にある。 何より、それらの島の出身であったとしても、旧街道を知らない人間などあり得ない。 海で途切れているだけで、迷惑にも旧街道は人が住まう土地にあまねく張り巡らされている。 島国とて例外ではない。 マリーの言った『トラック』とは、もしかすると彼女の故郷でのゴーレムを指す言葉なのかも知れない。 それと同じように、例え『旧街道』という単語自体は知らなくとも、 自身の話す言語において対応する単語にはすぐ思い当たるはずなのだ。 魔物の湧く道を他と区別しない文化など、人類史に存在しまい。 「……そう、だから当面の心配はしなくていい。  問題があるとすれば、その後だろうな。一応の生活基盤を築いて……  その後、マリーはどうしたい?  面倒なあれこれは今は置いておいて――最終的には、元居た国に帰りたいか?」 アズレッタは、スカートの尻を払って立ち上がったマリーに問いかける。 心臓が早鐘のように鳴っていた。 何故この少女は、自分の出身地を話さないのか。 迷子なのであれば、自分がどこから来た人間かなど、真っ先に話して良さそうなものなのに。 「あー……わたし、わたしの国、あー……興味?くっつく?あー……いらない、です。  帰る、ないです。いらないです」 「ふむ。故郷に未練はない、と?」 「はい、それです。未練、ないです。  わたしの爺、祖父、昨日、死ぬました。  わたしの父、母、わたし、えー、あー、悪い。父、母、わたし、悪い、です」 「祖父はお亡くなりになった。君の家族は君と同様に悪人……いや、君と両親は仲が悪い、かな?」 「それです、仲悪い、です。そして、わたし、友、いません。  わたし、珍しい、人間です。わたし、わたしの国で、やること、仕事、あるません。  居る場所、ないです。だからわたし、わたしの国、未練ないです」 「よくわからないが……親との関係は悪く、友人はいない、と。  それは未練もないかもね」 故郷では何らかの被差別階級や犯罪者だったのかと、アズレッタは思いはしたが聞かなかった。 恩人にそれを問う無礼を働くような真似はしない。 正直なところ、最初からその可能性も考慮していた。 出身を話さない理由として、真っ先に思いつくことだ。 「――ならば、この国に居続けるため、上手く立ち回らなければならないこともあるだろう。  どんな魔法を使ったか知らないが、関所も通らず入国したとなれば  故郷へ強制送還という可能性もあるかも知れない」 口の中がビスケットを食べた時よりも乾いていく。 アズレッタが最も知りたがっていることを聞き出すための言葉。 この手の話術に興味はない。だから下手くそな誘導だと自分でも思う。 強制送還うんぬんは単なるハッタリだ。 そこがどこかは知らないが、故郷に帰る手段が嘘でも存在することを示せれば良かった。 それを否定してもらうために。 マリーは「んー」と突き出した唇に人差し指を触れ、困ったように視線だけで空を見上げた。 「それ、困るます。あー……可能?可能、帰る、可能、ならば、わたしの国、帰る、わたし、嫌です。――それに」 「それに?」 「わたしの国、わたし、帰るさせる、無理だと思います。帰る、可能、違います」 「どうして?」 「どうして……あー……うー……えー、  わたし、頭、おかしい、違う。普通です。笑う、しないですね?」 マリーが言った。 アズレッタは必死に無表情を装う。 興奮していた。胸がわくわくと湧き立つのを止められない。 心当たりはあったのだ。 子供の頃からずっと聞かされた祖母の話。 三英雄たる祖母アグラが、同じく三英雄たる親友ガレオンを除けば、自分の家族以外には話さなかった、秘密の話。 今はこの地を去った三英雄最後の一人、ランスローの話。 「……笑う、ないですね?」 「ああ、笑わないよ」 表情が崩れていく顔をそれとなく背け、アズレッタは心の中で必死に続きを催促する。 マリーは、自分の出身地を話さなかった。 この地のことは知らないと繰り返した。 確信があったのではないか? 自分がこの地を知らないこと。この地の人間が自分の故郷を知らないこと。 そのこと自体は知っていたのではないか? 「――わたしの国、この世界、に、ないです」 「んぐっ」と、アズレッタが自分の声を飲み込んだ。 それを咎め、「笑う、ない、言った!言った!のに!」と騒ぐマリーを必死になだめる。 慌てているようで、アズレッタの口元には確かに笑みが浮かんでいた。 アズレッタは、自分を幸福な人間だと思っている。 生まれてこの方、望んだものが手に入らなかった試しがない。 新たに望んだのは、きっかけである。
/29ページ

最初のコメントを投稿しよう!