第二話 幽霊騎士

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第二話 幽霊騎士

アグラ運送協会は、三英雄アグラが興した運送業者である。 それが違法なものでない限りは、ありとあらゆる物品の輸送を引き受ける。 魔王を倒した後、三英雄ランスローはこの大陸を去った。 残された二名の内、ガレオンはその功績を認められ、広い領地を賜って貴族となった。 アグラも同じく貴族となることを勧められたが、何故か彼女は運送業を志した。 アグラが一台の馬車と二頭の馬を用立て、自ら御者を務めたのが、アグラ運送協会の始まりである。 現代にあっては、アグラ運送協会は二位以下を大きく突き放し、大陸一の運送業者となっている。 運送協会に匹敵する規模の組織は、同業に限らずとも大陸に十も存在しないだろう。 大陸に国の区分けはそう多くないが、それらの国家のほとんどにおいて、運送協会は半分公的な組織となっている。 運送協会がここまで大きな規模となったのは、 三英雄の一人、生きた伝説たるアグラの名声はもちろん、 経営を引き継いだアグラの子供たちの手腕によるところも大きい。 運送協会の初期、アグラは腕っぷしだけが取り柄の傭兵崩れや盗賊連中を片っ端から蹴散らして、 舎弟に加えたその者たちを、荷馬車の護衛として継続的に雇った。 護衛の数が多ければ、盗賊や魔物の襲撃を受けての被害が減り、荷は確実に送り先へと届くようになる。 荷を運ぶ度に魔物との戦闘を繰り返す中で、頭角を現す優秀な戦士も増え始めた。 そういった者たちを集め、十分な戦力としたならば、それを頼りに旧街道を突破することも可能となる。 そして旧街道を進めるのならば、その分だけ荷物を早く届けることができるのだ。 当初はアグラ個人を畏怖し、ときに恐怖して従っていた者たちも、 徐々に軌道に乗り始めた業績と、それに伴って上昇する賃金、 何よりも『旧街道の魔物をものともしない戦士たち』という名声に、 気を良くし、やりがいを覚え、強く結束していく。 アグラの子供たちが運送協会の舵取りをするようになった頃には、 協会の中でも上位クラス――三級、二級と分類されるようになった衛士の実力と意識は、 並の貴族の私兵などよりはよほど高くなっていた。 近頃は『国と戦争ができるのではないか』などとからかわれる始末だ。 だが確かに、運送協会を立ち上げたのが三英雄アグラでなければ、 運送協会の本拠地が、三英雄ガレオンの治めるこの土地――ほとんどアグラの身内である者の領地になければ、 大陸全土に多大な影響力を誇る三英雄が主導する組織でなければ、 いつかどこかでどれかの国の介入はあっただろう。 アグラ運送協会が継続的に維持する戦力は、それほどまでに高い。 今日も大陸のあちらこちらで、アグラ運送協会は何かしらの荷を運んでいる。 荷馬車隊にはその荷の内容、予定されるルートの危険度を鑑みて 五級から二級までの衛士たちがあてがわれている。 が、時にそれでも準備が不十分とされるような困難な依頼が、 アグラ運送協会には持ち込まれることがある。 それは相応の貴重品の輸送であったり、旧街道の強行突破による高速輸送であったりする。 ごく稀には、運送協会衛士の高い戦闘能力を頼りにした 地元の兵士やそこらの傭兵団を差し置いての魔物の盗伐依頼であったりもする。 実戦経験豊富な戦士である二級衛士であっても、なお力不足と判断されるような、 過酷な任務に対して送り込まれる、アグラ運送協会の切り札。 「……それが私たち、一級衛士だ」 語るアズレッタの頬を一筋の冷や汗が流れ落ちた。 アズレッタは荷車ゴーレムの御者席にいる。 馬車の常識では考えられない柔らかな座り心地の椅子に、ベルトで身体を緩く固定している。 マリーの強い勧めに従ったものだ。 何の繊維で織られたものか、椅子に備え付けられた頑丈なベルトが、左肩から右腰へ伸びている。 万が一、何らかの事故があった際、このベルトが衝撃を和らげるのだと言う。 「すごい、ですね。アズレッタさん、強い人です?」 「私も『さん』はいらないよ……アズレッタでいい」 アズレッタの右隣にはマリーがいて、同じように椅子に身体を縛り付けて、 時折足元の踏み板を優しく踏み変えながら、手元に伸びた輪を右へ左へと回している。 それに合わせてゴーレムは左右に進む向きを変えるので、それが舵の類であることはすぐにわかった。 他人が動かせるように作らない限りは、作った人間にしか動かせない。 そのように完成してしまうのがゴーレムであるらしいとアズレッタは記憶している。 そのはずが、ずいぶんと直感的な――誰でも真似できそうな操作方法だという印象を受けた。 例えば今、横から手を伸ばしてあの輪を無理に回したのなら、 ゴーレムはマリーの意志に反して、自分が回した側に舵を切ってくれるのではないだろうか。 視線だけを動かして舵を見ていた目を正面に戻し、アズレッタは唇を真一文字に引き結ぶ。 アズレッタがじっと正面の窓ガラスを見つめているのに対し、 彼女の話に相槌を打つマリーの視線は、 アズレッタの顔を見つめたり、横の窓から景色を眺めたりと安定しない。 「あー……ありがとうございます。では、アズレッタ、強い人ですか」 「ああ、一級衛士だからね……私も、私以外も、皆強い。  けれども当然、一級衛士のくくりの中にも実力差はあるし、戦う相手との相性もある。  あの時、鬼型を一人で足止めできるのは、私以外にいなかったんだ……」 「格好良いです!では、あの、あー……犬?も、倒せるでしたか?」 「犬じゃないよ、狼型。口だけ勇ましいことを言うようだが……  あの狼型は倒せたと思う。ただ、それが最後の抵抗だったとも思うよ。  あそこで君が来なければ、あのような襲撃があの後も二度、三度と続いて、いずれ力尽きていた」 「助ける、できて、良いかったです。あー……そう言えば、鬼型、どんな魔物ですか?」 「マリー。私が悪かった」 座ったままマリーに向かって頭を下げようとしたアズレッタの上体を、椅子のベルトがビンッと張って食い止めた。 「君の故郷は、この世界に存在しない場所なのかも知れない――突拍子もない発言だが、笑ったのは謝る。  だからもう、私をからかって遊ぶのは止めてくれないかな?」 「はい?……わたし、怒る、違う。からかう、ないです?どうしましたか?」 「このゴーレムの速度だ!ちょっと速過ぎないか!?」 顔を上げたアズレッタが叫んだ。その背後で、窓の外の景色が飛ぶように後ろへと流れていく。 馬車などとは比べるべくもなく、ゴーレムの足は異様に速かった。 魔法を使えば人外の力を得られ、そしてそれを自在に使いこなすアズレッタであるが、 そんなアズレッタが声を荒げるほどに、このゴーレムは速い。 魔法を使ったアズレッタの走る速度よりも明らかに上だ。 強敵との戦闘であれば、要所要所で一時的にこれを超えるスピードを絞り出しはするが、 この速度で走り続けることを求められれば、アズレッタは無言で首を横に振る。 おそらく、十歩も走らずに転ぶだろう。今の彼女では、魔法の制御が追い付かない。 「こんなに急いでどうするんだ!『ススケムリ』の町までは二日かからないと言ったが……!  このペースではあと数時間もかからず到着してしまうぞ!?」 「でも、アズレッタ、仲間、大丈夫、知る、必要あるます。  それに、急ぐ、ないです。これ、普通です」 「確かに仲間の安否も早く知りたああああああっ!?」 マリーが右足をぐっと踏み込んだ。 がおおおおお、とゴーレムのうなり声が強くなり、それに比例して速度はぐんぐんと増していく。 アズレッタの背中が慣性で椅子の背もたれに押し付けられた。 「おおおおおおおおっ!?止め、マリー!速度を落としてくれ!」 「はい」 減速に息をついたアズレッタを、マリーは戸惑った様子で見つめていた。 そう、アズレッタを見ているのだ。 これほどの速度を出すゴーレムを操りながら、正面を見ていない。 アズレッタは戦慄した。 彼女は本当に急いでいなかったのだ。本当にこれが『普通』なのだ。 魔法を使うアズレッタを超える速さで疾走することが、 マリーとこのゴーレムからすれば、できて当然の行いなのだ。 少なくとも、それをしながら平然と余所見をする程度には。 「足りない、少ない、あー……少し。そう、もう少し、ゆっくり走る、ですか?」 「……いや……さっきくらいなら大丈夫……  確かに私は、仕事の成否を、仲間の安否を確かめないといけないからね……」 アズレッタは力なく身体を背もたれに預けた。 これほどの速度で走りながら、地面からの衝撃がろくに伝わってこないのも違和感がある。 揺れないわけでも、石畳の起伏を感じないわけでもないが、その感触の全てが柔らかいのだ。 いくら乗っていても疲れないのではとすら錯覚する。 いったいこのゴーレムの車輪には、どのような仕掛けが施されているのか。 「ここ、この道、人、ないです。ないなので、速く走る、簡単です」 「現代の街道としてはやや古いからね……  本当はもっと広くて新しくて――旧街道から十分な距離を取った新しい道があって。  私たちのように旧街道から飛び出してきたとかでなければ、皆そっちを通るんだ」 「そっち、行く、良かったですね?」 「いや、わざと人気のない道を選んだんだよ」 アズレッタは自分の判断の正しさを確信する。 ただでさえそれそのものが珍しいゴーレムの中でも、とびきり奇妙な形をしたこの荷車を 街道を行く不特定多数の前に晒したくなかったのだ。 鼻を鳴らしたアズレッタは、そこで思い出したように窓の右側を指差した。 「そこにもさっきと同じような休憩所がある。  いくらか休んでいこう、町に着いてからの段取りも相談したい」 * * * * * 利用価値は、計り知れない。 ゴーレムを降り、大きく伸びをするマリーを見下ろしながら、アズレッタは舌なめずりをする。 アズレッタはゴーレムの荷台の上で、さっきまで自分たちが乗っていた箱部分に寄りかかって立っていた。 見張りのためだ。 ゴーレムの上ならば、視界を高く、広く得ることができる。 強い魔物は生息していない辺りだが、この休憩所は旧街道が近い。 こういう場所には、気まぐれを起こした魔物が迷い込んでくることがある。 荷台には、いくつかの木箱や何かの包み、予備の車輪と思しきもの等がそれぞれロープで固定されている。 マリーが言うには、いつ、どこに、どうやって放り込まれるかはわからなかったものの、 いつかどこかに何とかして移動させられること自体は予想していたそうだ。 そのため、このゴーレムにはもともと食料や様々な道具が積み込まれていた。 最も、マリー自身はそれをまるで信じていなかったという。 マリーではなくマリーの祖父が、強く――狂気と呼べるほどに強く信じ込んでいたらしい。 いつかこのゴーレムは、必ずこの大陸に辿り着くと。 アズレッタには、マリーの祖父に心当たりがあった。 それを口に出すことはしない。 マリーの発言を信じるなら、彼女の祖父は既に故人だ。 彼が何を望んでいたのか、会ったこともないアズレッタには知る由もない。 そしてマリーは今のところ『自身の生存のため、人里に向かう』以外の願いを口にしていない。 あるいは彼女は何らかの事情か事件かに巻き込まれただけの被害者で、 この世界に対して何の目的もないのかも知れない。 マリーの手足は細く、驚くべきことに特に武器は持っていない。 質問してみたが、何かしらの武術を学んだどころか、あらゆる武器を握ったことすらないと言う。 ちょっとした視線の配り方、歩く際の重心に注意を払ってみても、 彼女に戦闘能力がないことは明らかだ。 最も、アズレッタ自身のように、マリーが魔法使いである可能性は残されている。 それでなくとも彼女はゴーレムマスターだ。 マリー自身が弱くとも、ゴーレムの戦力は未知数。 力ずくで言うことを聞かせるのはリスクが高い。 だが彼女はまず間違いなく、この大陸についてほとんど無知な人間である。 付け入る隙は十二分にある。 どうにか上手く言いくるめて、我が物にはできないだろうか。 彼女と、このゴーレムの力を。 アズレッタは目を細めて口の端を吊り上げ、そして言った。 「――いや。そういうのは向いてないぞ、私」 独り言が多いのは、アズレッタの癖だ。 そもそも不自由な言葉でわけのわからない主張をするこの少女の言い分を、 大部分は信じて行動を共にする程度には、アズレッタはお人好しなのだ。 名声を得て英雄になる野望を持ち、 それを邪魔する敵ならば何人たりとも叩きのめす心構えのアズレッタには、 しかし無関係かつ善良な人間を積極的に巻き込んで利用する覚悟はない。 彼女自身の主観で『悪い人ではない』あるいは『良い人か悪い人かわからない』誰かへと、 意識して危害を加えることを、アズレッタは何となく不快に感じる。 そしてそのことを特に疑問には思わない。 敵でない、というだけでそうなのだ。 ましてマリーは狼型の魔物に囲まれていた見ず知らずのアズレッタを 己の命を賭けて救い出した少女である。 アズレッタの主観では、文句なしの『良い人』だ。 アズレッタがそうであったように、実は狼型を倒す自信はあったのかも知れなかった。 だがそれは、アズレッタのためにマリーの命が危険に晒された事実には一切関係のない話である。 彼女がアズレッタのため、命を賭けたことには変わりない。 マリーの力になろう。 彼女が元は何者であれ、今この地で悪事を働かない限りは。 アズレッタはそんな思いを強くする。 彼女の正体や、ゴーレムの力など、そんなものは二の次だ。 マリーが頼りにできるのは、今は自分しかいないのだから。 「……まあ、そうした助力の見返りを期待する下心がないとは言わないけど――」 「何ですか?」 ひとり苦笑したアズレッタに小首を傾げながら、マリーが車輪に足をかけて荷台へ上がってくる。 片側にかかった重量に、ゴーレムの荷台がゆらゆら揺れた。 「いや、不思議な出会いもあったものだと思っただけだよ」 「出会い。わたし、アズレッタ、出会った、良いかったです。  アズレッタ、良い人です。わたし、助かる。ありがとう」 「ああ、私も珍しいものを見せてもらったよ。  とうもろこしのポタージュに、ペットボトル。何よりこのゴーレムだ」 「……その、ゴーレム、何ですか?これ、Λ▼Θ●Λ◆Σ◆です」 「トラック――君の故郷では、ゴーレムをそう呼ぶのか?」 「んー……たぶん、違う。わたしの国、故郷、たぶん、ゴーレム、ない。わたし、知るないです」 「旧街道も知らない、ゴーレムも知らないと来たか。  本当に君の故郷はこの世界にはないのかも知れないな。  ゴーレムというのは、旧帝国の遺した魔術を元に――」 そこまで言って、アズレッタはふとマリーの肩越しにそれと目を合わせた。 会話を中断し、手探りで腰のナイフの位置を確認する。 広場を囲う背の高い草むらの中、にょきっと一本飛び出した頭が、こちらを向いているのだ。 「アズレッタ……?」 「ああ、すまない。ほら、そこ。カマキリ型だ」 指し示されるままマリーは後ろを振り返り、そこにいた魔物の姿に気付いて大袈裟なまでに肩を強張らせた。 カマキリ型の魔物だ。 カマキリを知る人間なら誰もがそう考えるだろう。 身体の大きさが大柄な成人男性のそれに匹敵することを除けば、 逆三角形の頭も、胸から伸びた一対の鎌と四本の細い脚も、対照的に太く膨れ上がった腹も、 おおよそカマキリとしか形容できない姿をしている。 巨大なカマキリだ。 もしかしたらこれほど大きく成長したカマキリも、この世界が現在に至るまでの歴史の中に一匹くらいはいたかも知れないが、 その頭に光るのは紫色の一つ目なので、これがカマキリ型の魔物であるとわかる。 「Ξ●Ξ△、Ξ●Ξ△●Θ□、Π□Σ●△Σ●Γ●Σ△Θ△……」 「落ち着いて。その様子だとあれを見るのも初めてか、カマキリ型の魔物だよ」 「カマ、キリ……嘘、大きい……嘘……」 「大丈夫、昨日の狼型に比べれば、全然大した相手じゃない」 近くの旧街道から迷い込んできたのだろう。 アズレッタはマリーを背中にかばい、ナイフを抜いた。反対の手で腕と脚にはめた白金の輪に触れる。 マリーを安心させるためにそう言ったのだが、実際にカマキリ型は弱い部類の魔物だ。 もちろん、魔物は魔物である。人よりも力は強い。 肉に突き刺さる鎌でもって人間を捕らえ、絞め殺し、そのまま食い尽くした例は数限りない。 一方で動きは鈍い。人が歩く程度の速さでしか移動できないし、 普通のカマキリのように羽はあるものの、低いところから高いところへ飛び立つこともできない。 自慢の鎌も肌や肉は切り裂くが、わざわざ鎧と呼べるものを装備せずとも、 野営用の毛布を腕に巻き付けるだけで充分に裂傷を防げたりする。 また、自身の外皮は狙いどころによってはそれほど硬くないため、 何なら人の拳や蹴りであっても、十分に致命傷を与え得る。特に腹が柔らかい。 知能は低く、群れることもない。 動くものを優先的に追いかけ、動かないものはよく見えないらしいので、 冷静に立ち回れる囮役が一人いれば、素手の素人でも返り討ちにできるような弱小の魔物である。 最悪、走れば逃げ切れる程度の脅威でしかないのだ。 カマキリ型が人を殺した事例はたいてい、寝込みや用便のような無防備でいたところへの不意打ちである。 「あ、アズレッタ……逃げる、逃げますか……?」 それにこうも怯えるとは。 旧街道を知らないという発言にも信ぴょう性が出てきた。 昨夜の狼型を除けば、魔物自体を初めて見たのかも知れない。虫が苦手な可能性もあるだろうか。 「まあ、そうだね……逃げるのは簡単だし、そうしても良いのだけど……」 アズレッタは、自身の子供の頃を思い出していた。 もう旅行先はどこだったのかすら、行きか帰りかも覚えていない家族旅行の道中、 初めてアズレッタが手ずから殺したのが、カマキリ型の魔物だった。 当時はもう、祖母のような英雄になる夢を周囲に語っていた。 ならば魔物を倒す経験は早い方が良いだろうというアグラの提案を受けて、 旅行中、たまたま目の前に現れたカマキリ型が初体験の相手となったのだ。 祖母アグラがふらふらと動いて気を引き、 その隙にアズレッタがカマキリ型の背後に回り込んで、でっぷり太った腹を剣で思いきり突き刺した。 二度、三度と刺し、標的を胸に変えて、 脚を落とし鎌を落とし、最後に首を斬り飛ばした。 旅行自体のことは何も覚えていないというのに、 あの息切れと高揚感、肉を裂く感触、わずかばかりの後ろめたさは今でもはっきりと思い出せる。 だが、それよりも印象深いのはその後のこと。 一匹目を倒してすぐに現れたもう一匹のカマキリ型を、アグラが素手で殴り殺したことだ。 右の拳を一発。それだけでカマキリ型の頭は霧散し、戦いはそれで終わった。 「……そう、逃げても良いのだが――喧嘩を売られたからな」 今となっては、こんな弱小の魔物一匹、どう弄んだところで実力の証明にはならないとは思うが。 あの時、祖母が自分に抱かせた畏怖と憧れを、自分もこの少女に抱かせられるだろうか。 相手がカマキリ型一匹ならば、どうあっても負けることはない。 夢は英雄になること、名声を得ることと臆面もなく言い放つアズレッタであるから、 悪趣味という自覚もあるが、自分の力を誰かに誇示することは嫌いではない。むしろ大変に好んでいた。 思えばマリーには幾度となく驚かされた。今度は自分の番だろう。 それに、今後も彼女と付き合いを続けるとしたなら、自分の強さは早めに知っておいて欲しい。 「あいつの動きは大して速くない。何なら早歩きでも逃げられる。  もし万が一私が負けたら、すぐにゴーレムに乗って東に向かうんだ。『ススケムリ』の町に着くよ」 「戦う、ですか……!?負ける!?危ないです!」 「大丈夫。あれに負けるようなら、どのみち運送協会の衛士は務まらない。  君には狼型相手に苦戦している姿しか見せたことがなかったろう?  あの程度の相手なら、軽く倒せるというところを見せたい」 「必要ない!逃げる、可能、なら逃げる!」 「君は昨日の夜、狼型から私を救ってくれただろう」 「逃げる――はい……?」 「あのカマキリ型は、何なら君でも頑張れば倒せるかも知れない。  でも、狼型は――昨日の狼型の群れは無理だ。あれは二級衛士の一隊でも、負けるときは負ける」 アズレッタは言った。狼型の魔物は、戦い方を知らない普通の人間では絶対に倒せない類の危険な相手である。 「このゴーレムが戦闘でどれほど強いのかは知らないが、  君はあの時、自分の命を賭けて私を救ってくれたんだ。……自覚はあった?」 「……いいえ」 「だろう。――マリー、私はアグラ運送協会一級衛士。人と荷を守って、戦うのが仕事だ。  君は私を良い人だと言ってくれたが、昨日今日の付き合いだというのに、私も君を気に入っている。  ゴーレムやペットボトルのような面白いものを、もっと私に見せてくれる予感がするから。  君さえ良ければ、この先も良好な関係を築きた……マリー、どうした?」 マリーの頬や耳は、先ほどより赤みが増している。 ずいぶん唐突に自分語りをしてしまったと、アズレッタは反省した。 気付けばナイフを放り出し、両手でマリーの肩を掴んでしまっている。それはマリーも驚くだろう。 「ああ、すまない。……だからこの先、君の身に危険が迫ったとき、  遠慮なく私に頼って良いことを知って欲しいんだ。  私のために、命を危険に晒す必要がないことも。  私は戦うのが仕事だ。正直なところ、戦うことしかできない。  ――だから、一番の得意分野で頼ってもらえないのは、なかなか歯がゆいんだよ」 「…………勝てる、ですか?何もなし、あー……無事、に?勝てる?」 「ああ勝つね。負けようがない」 がさがさと草を掻き分ける音。 カマキリ型は草原から広場へ、のそのそと足を踏み入れていた。 明らかに、アズレッタとマリー、二人を狙っている。 「じゃあ、見ていてくれ」 アズレッタは再びマリーの肩に手をやり、その身体をそっと押し退けた。 そこにアズレッタの鎧櫃があったからだ。 ブーツのつま先で器用に木箱のふたを開け、カマキリ型に向き直り、アズレッタは叫ぶ。 「――来い!」 アズレッタの足元の鎧櫃から、誰の手も借りずに鎧が飛び出した。 鎧は海のような深い青色。 鎧櫃の隣に転がっている大剣の刃と同じ色をしている。 アズレッタの頭上に浮かび上がった巨大な胸甲が前後に割れると、 中から現れた左右の脚甲はこちらも前後に割れ、その中にはしまわれていた手甲が現れた。 意志を持つかのようにアズレッタの周囲を飛び回った青い鎧は 金属同士がぶつかる音を遠慮なく響かせながら、 すねから太もも、腰から胸、指先から二の腕へと、下から順にアズレッタの体を鎧っていく。 鎧には兜がなく、頭部を覆う装甲は胸甲、背甲と滑らかに一体化していた。 頭部は中で首を回して周囲を覗けるよう、工夫した形状の細い覗き穴が開いている。 胸と頭が一つになった鎧に、最後まで浮かんでいた左右の巨大な肩当てが合わさると、 甲冑をまとったアズレッタは人のシルエットを失い、 その立ち姿には、まるで首がないように見えた。 この独特な鎧を目撃したのであろう、何者かが言い出した『幽霊騎士』の異名を、 アズレッタ自身に面と向かって口にする者も、近頃はだいぶ増えたものだ。 「――さあ、全力で身を守れ!」 アズレッタは左手の人差し指をカマキリ型に突きつけ、同時に足元の剣に向けて右手を伸ばす。 陸に上がった魚のように跳ね上がった大剣は、それを一瞥もしないアズレッタの手にすぽっと収まった。 剣を右肩にかついだアズレッタは、太っているようにさえ映る鎧の重さを まるで感じさせない身軽さでゴーレムの荷台を飛び降りる。 果たしてその着地の隙を意図的に狙ったのかどうか、カマキリ型の両の鎌がアズレッタを捕らえようと迫るが、 アズレッタはそれを避けない。 べちっ。 金属音が鳴ることすらなかった。 生物の肉を裂くことがせいぜいのカマキリ型の鎌では、 『鋼より強く、鉛より重い』と評される、バチスタイト紺碧合金から鍛造したアズレッタの鎧を 叩いて震えさせることも叶わない。 「ふんっ」 右肩の上から左脇の下へと、片手で無造作に、 それでいてあまりにも速く振り抜かれた大剣がカマキリ型の胴体を一閃した。 刃は止まらず、天から紐で引っ張られたように不自然な軌道でアズレッタの頭上へ跳ね上がる。 切り離されたカマキリ型の上半分が、宙でわずかに傾くことすら許さずに、 アズレッタは今度は縦に、地面に残された腹部もろともカマキリ型を叩き割った。 図体の割にはわずかな量の体液が飛び散り、十字に四等分されたカマキリ型の死骸が地に落ちる。 * * * * * 「終わったよ」 鎧の擦れる音こそがちゃがちゃとやかましいが、 その異形に似つかわしくない滑らかな動きでゴーレムに歩み寄ったアズレッタ。 ふわり、身軽に飛び上がって荷台のマリーの前に降り立つ。 全身に金属鎧を着込んで大剣をかついだ人間が飛び乗ったと言うのに、 小柄な少女がよじ登っただけで揺れていたはずの荷台が微動だにしない。 「君が先にゴーレムの力を見せてくれたからね。  私も切り札を見せた。手の内を明かすのは信頼の証と思って欲しい」 「切り札……」 「ああ、これが私の魔法だ」 アズレッタが鎧櫃のそばに立つと、鎧は鱗が剥がれ落ちるようにひとりでに外れ、 彼女の周囲を二、三周ほど飛び回りながらコンパクトに折り重なって、 最後は自らすとんと櫃の中に収まった。 「特に名前はないんだが、まあ……『金属操作』だ。  私は、私のごく近くにある金属であれば、手を触れずに操れる。  手を使うより力強く、器用にね」 マリーは勝手に箱の中に収まった鎧を呆然と見つめていたが、 やがて油の切れた機械のように、ぎこちない動きで顔をアズレッタに向けた。 その表情には、恐怖の色がありありと浮かんでいる。 驚嘆なり称賛なりを期待していたアズレッタが小首を傾げたのを合図に、 マリーはよろよろと数歩後ろに下がり、そこが荷台の端であったことに気付かない。 「あ――」 「危ない!」 荷台の低い壁につまづき、頭から転落しかけたマリーの身体を、 一瞬で距離を詰めたアズレッタが余裕を持って掴む。 自分の体表近くに存在する金属を操作する魔法により、 尋常ならざる重さの鎧と剣を操るのがアズレッタの戦法だ。 彼女は鎧を着て戦うのではなく、鎧を戦わせる。中に収まっているだけだ。 その魔法と技術を全身の貴金属とブーツに仕込んだ鉄板に対して用いることで、 それなりに広い荷台の端から端まで、瞬き一つの間に移動してみせたのだった。 「何だ、どうしたんだ、マリー?」 抱き寄せたマリーにそう声をかけるも、返事はない。 マリーは今にも泣き出しそうな顔で、頭一つ高い位置にあるアズレッタの目を見つめていた。
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