第四話 もし君に敵がいるのなら

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第四話 もし君に敵がいるのなら

「まあ、まともにものを考えられなくなっちまいますよ」 幼い頃、祖母に連れられて一人の老人に会ったことがある。 その時にはもう隠居していた元戦士。 その男はアグラ運送協会の最初期、アグラとともに荷馬車の護衛を務め、 護衛の戦士を格付けする制度が施行された時には、最初の一級衛士に選ばれた男だった。 「アズレッタちゃんは、その歳でもう魔法が使えるんだろ?  君は持ってる側――アグラさんの側かも知れないから、  もしかしたらわからないままかも知れないですけどね。  あの頃の俺は何となく、自分が何者でもないことに気付いちまってたんですよ」 アグラら三英雄が魔王を倒した後、魔物の脅威は大きく減少し、 戦うことしかできない類の人間の需要もそれに伴って減った。 当時はそういった職にあぶれた戦士が他の人間といさかいを起こしたり、 盗賊に身を堕とすことなど珍しくなく、男もその一人だった。 アグラに叩きのめされ、半ば強引に運送協会の一員とされるまでは。 「そりゃ喧嘩の腕前に自信はありましたがね。何せそれしかできなかったんだ。  でもまあ、あれを……アグラさんを見てしまったら、俺なんか、もうね……  見た目はああですけどね、一回りも二回りも年下の娘っ子が、あんな……  『本物』って奴を嫌というほど見せつけられました。  ――そんなアグラさんがね、頼ってくれるんですよ。俺を」 男は最後までへらへらと自嘲するようなにやけ笑いを止めなかったが、 その声色がとても嬉しそうだったことが、今もアズレッタの記憶に残っている。 「あんな化け物みたいに強い人が、協会にはお前たちが必要だと。  そう言ってくれるんです。仕事を任せてくれるんですよ。  不思議と心が浮き立ちましてね。何だってやってあげたくなっちまう。  これを言うとアグラさん怒るんで内緒にして欲しいんですがね、  あの頃は本当に、アグラさんのためなら命も惜しくなかった。今もですがね」 アグラさんからすれば、俺なんざ大勢いる協会員の一人だったんでしょうけども。 男はそう結んだ。 その時のアズレッタは何となくそれは間違いだと思ったし、 今のアズレッタは男の発言が間違いであることを確信している。 それから数年して、男は亡くなった。年齢を思えば、十分に天命を全うしたと言えるだろう。 アズレッタが生まれて初めてアグラの涙を見たのが、その男の葬儀の席だった。 あれから十年近い時が流れた今ならば、アズレッタも理解できる。 そのままではただの戦士でしかなかった自分を、英雄の仲間の一人に変えてくれた。 他人に対し、自信を持って名乗り伝えることができる己を与えてくれた。 それが嬉しかったのだろうと思う。 自分はその人生において、何も成し遂げられなかったわけではないのだ。 自分はアグラの仲間であったのだ。英雄を支えた一人なのだと。 自分が尊敬する、自分を上回る能力の持ち主が、自分に絶対的な信頼を寄せてくれる。 そのような状況には、どうも何らかの力があるらしい。 ある種の人間を浮かれさせ、舞い上がらせてしまう力である。 この偉大な人物には自分の助けが必要なのだと、むやみやたらに奮起を促す力である。 今のアズレッタを突き動かす力だ。 * * * * * 目の前の少女の身体に多くの古傷があったからと、それを指摘し、理由を聞く。 思えばあまりにも配慮に欠けた行いであるが、アズレッタとしてはそれどころではない。 自分では到底真似のできない、凄まじい力の持ち主が、傷を負っている。負うような過去があった。 それが暴力によるものなら、自分であれば何とかできる可能性は高い。 そして今、この少女が頼れる人間は、今この世界には自分ひとりしかいないのだ。 深入りもしようと言うものである。 とは言えアズレッタのこの焦燥は、十中八九、マリーからすれば良い迷惑だろう。 彼女の知人は少なくともこの国にはいないようだ。 マリーに危害を加えていた者がいたとして、その者はこの近辺にはほぼ確実にいない。 アズレッタの情熱を、恐らくマリーは必要としていない。 それを自覚してなお、抑えられない衝動がある。 力が溢れるとはこんな状態かと、アズレッタはそんなことを思った。 やがて、マリーは口を開く。 「……アズレッタ、わたし、昨日、会う、でした」 「そうだな、短い付き合いだ」 「わたし、助ける、金、評価……あー、価値。助ける価値、あるですか?  デコトラ、欲しいですか?」 「ああ。ある。欲しい」 こういうとき父や弟なら、気の利いた言葉の一つもかけられるのだろうなとアズレッタは思う。 差し出した右手を欠片も引っ込めず、アズレッタはマリーの言葉にはっきり頷いた。そして苦笑する。 「兄さまが聞けば、こういう見切りの早さがお前の悪癖だ、って言うだろうな」 「兄さま……?」 「こっちの話。幼馴染にね、よく言われるんだ。お前は苦手を克服する努力をしない、って。  まあ実際、その通りだよ。  本当にデコトラの力が欲しいなら、君の信頼を得るため、慎重に言葉を選ばなければならないんだろうけど……  そういうのはどうも昔から苦手だ。苦手だから、やらない。  さっさと本心を語ってしまおうと思う」 ちょうどそれに相応しい格好だろう?そう言ってアズレッタはさほど大きくもない胸を張ってみせた。 何故か赤面するマリーに向けて、ゆっくりと続ける。 「あのデコトラは凄いゴーレムだ。あんなのは見たことも聞いたこともない。  あれの力を貸してもらうため、君と仲良くなりたいという下心は確実にあると思う。  もしかしたら、そっちの方が大きいかも」 求めるものは何でも手に入った反動か、求めていないものに対する割り切りは早い。 アズレッタはこういった話術や交渉術にとんと興味がなかった。 興味がないので、いつも早々に切り捨てる。 赤裸々に自分の本心と目的を語り、それが通れば良し、通らなければ素直に諦める。 諦めることが許されない切羽詰まった状況ならば、自慢の武力を行使するまでだ。 幸いなことに、行き着くところまで行き着いた経験はこれまでほとんどなかったが。 「下心は多分にある。……それはそれとして、カマキリ型に出会ったとき、君に言った言葉も本当なんだ。  君は命の恩人だ。その恩人が、何やら苦境にある様子。困っているのかも知れない。  それは力を貸すさ、協力は惜しまない」 デコトラの力を欲しているのは事実である。利用価値は計り知れない。 だが、仮に今この瞬間マリーがデコトラを失ったとして、 アズレッタには差し出したままの右手を引っ込めるつもりは一切なかった。 アズレッタの見立てでは、マリーの戦闘能力は本当に皆無だ。 その辺の子供にすら喧嘩で負けかねない。 そのような弱者が狼型の魔物の群れを相手に命を賭けた事実を前に、 自分の実利を追い求めるような真似はできない。アズレッタの美学と良心は、そんな行いを許さないのだ。 「そもそも古傷のようだし、君を知る者は良くも悪くもこの国にはいないのだから、  今、私が慌てたところで何ができるわけでもないのだろうが……  君が傷を負っているのを見たら、冷静さを失ってしまった」 アズレッタは軽く頭を下げ、そして続ける。 「もし君に敵がいるのなら、私はその前に立ち塞がる。そう伝えておきたかったんだ」 マリーは沈黙した。アズレッタはじっと彼女の言葉を待つ。 鼻の頭に浮いた汗が、唇を避けて肌を伝い、顎先から滴って湯船に落ちる程度の時間が過ぎ、 「…………アズレッタ」 「うん」 「わたし、あなたの敵、違います」 「知ってるつもりだよ」 「あなた、わたしの敵、違うですね?」 「もちろん。信じて欲しい」 「短い、あー、短い付き合い、です。でも、頼る、良いですね?」 「ああ」 「――全部、話します。助けてください」 ずっとずっと差し出されたままだったアズレッタの右手を両手で掴み、マリーは言った。 「これ、わたしの祖父、やりました」 マリーの言葉は、アズレッタも薄々感付いていたことだった。 これまでの話を聞く限り、彼女の関係者は二人いる。 一人は、マリーに言葉を教え、デコトラを与え、この大陸に送り込んだという彼女の祖父。 もう一人は、マリーが露骨に敵視し恐れている、黒い人型の何かを呼び出す魔法使い。 が、そこにアズレッタが知る情報、三英雄アグラの孫であるために知り得た秘密を併せると、話は変わって来る。 マリーの関係者の二人が同一人物であることは、アズレッタには読めていた。 マリーにデコトラを与えたゴーレムマスターである彼女の祖父は、 同時に黒い人型を呼び出す魔法使いであり、彼女と敵対関係にあったということだ。 事前に察していたというのに、それでもアズレッタはある程度は驚いた。 自分の考察が、マリーが口にした事実が、世間一般の常識と食い違っていたためだ。 つまるところ、自分の予想が信じられなかった。こうして答え合わせが済んだ後ですら。 「……人間も生き物だからな、君の祖父は二人いるはずなのだが……  君をこの地に送り込んだという祖父と、君にその傷をつけたという者は――」 「同じです。同じ人、です。  わたし、言葉、デコトラ、教えた人。  わたし、ここ、送った人。  わたし、殴った人。  ぜんぶ同じ人です。わたしの祖父、やりました」 「……ふむ。君の祖父と、君の敵が、同一人物。確認するが、どこかで話してくれていたか?」 「いいえ。隠す、黙るでした。話してくれてません。  アズレッタ、祖父の仲間と思いました」 「それは、魔法を使ったからか?私と君の祖父に何か共通点が?」 「会ったときから、祖父の仲間、思いました。  ――アグラ運送協会、言いました、ので」 「はあ……?」 確かに名乗った。アグラ運送協会の一級衛士と。 割と公私の区別なく、アズレッタは誰に対してもそう名乗る。 それが何故、マリーの祖父の仲間であると判断されるのかと首を傾げていると、マリーが言った。 「この車をガレオンに届けろ。この車をアグラに届けろ」 目の前での発言にも関わらず、それがマリーの言葉であると信じられないほどに その言葉は極めて流暢なものだった。アズレッタは思わず目を丸くする。 「俺の人生は、先の十五年でもなく、後の五十年でもなく、  あの大陸で過ごした十年にこそあったのだ。こんなものは俺の人生じゃない。  この車をガレオンに、アグラに届けろ。命に代えて届けろ。  お前らはそのために生まれたんだ。この車を届けて、あとは死ね」 あのどす黒い目をして、歌うようにマリーは言った。 その口調に、アズレッタも何となく察しがつく。 「……そうか。それは君の祖父の言葉だね?」 「はい」 「今まで聞いた君の言葉の中で、間違いなく最も良い発音だった。  ……それだけ真似られるほどに、何度も何度も繰り返していたわけだ」 頷くマリーに、アズレッタもまた何度も何度も頷き返してしまう。 親が利用するために子を作ることはあるだろう。思惑の多寡を問わなければ、誰もがそうかも知れない。 本来であればアズレッタも、そのように利用されるはずの子供であった。 アズレッタは大陸全土に強い影響力を持つ組織の、中枢を担う一族の娘だ。 しかも自覚する程度には見目麗しい美人である。 親兄弟のようには頭が回らず、腹芸ができずとも、女というだけで価値はあったろう。 それが今のアズレッタは、一戦士として荷馬車を守る現場仕事に勤しんでいる。 幸いにも一級衛士の高みまで上り詰めはしたが、 その影響力は、彼女が単にアグラ運送協会の娘として生きた場合のそれとは、 比較にならない低さなのではなかろうか。 今のアズレッタがあるのは、彼女の祖母が、親が、兄弟が、 彼女の自由意思を認めてくれたからに他ならない。 アズレッタはそのことを深く感謝していた。それだけに、マリーの人生を不憫に思う。 言葉をそのまま受け取るなら、マリーの祖父はデコトラをこの地に送るためだけに孫を育てたらしい。 あるいはマリーだけでなくその親、自分の息子か娘かもそうだったのだろうか。 「わたし、言葉、間違える、殴られました。  わたし、デコトラ、動かす、間違える、殴られました。  わたし、失敗する、殴られました。  わたし、逃げる、殴られました。  わたし、殴る、殴られました。  わたし、助ける、助けた人、殴られました。  祖父、あの黒い人、呼びます。いっぱい呼びます。黒い人、強いです。  みんな、みんな、みんな、殴られました。  祖父、強いです。みんな、わたし、助ける無理でした」 マリーが祖父に敵意を抱くのも納得がいく。 恐らくはアズレッタのそれより短い彼女のこれまでの人生に、果たして彼女の意思がどれだけ働いたことだろう。 マリーを助けようと試み、マリーの祖父に敵対する者がいないというのは不自然といえば不自然だろうが、 その答えも既にアズレッタの中にあった。 マリーは魔法を知らなかった。彼女の周囲に祖父以外の魔法使いがいなかったのなら―― いや、少しばかりいたとしても、彼女の祖父には敵わなかっただろう。軽く蹴散らされて終わりだ。 マリーの祖父は、デコトラの届け先を明言している。 ガレオンに届けろ、アグラに届けろと。三英雄の内の二人だ。 「なるほど……なるほど……納得した、ああ、納得したとも。  それは私を信用できないだろうな、アグラ運送協会と名乗ったものな――」 「はい。祖父、アグラに届けろ、言いました。  アグラ、アグラ運送協会、ですか?」 「いや……違う。たぶんマリーの祖父は、運送協会でなく  言葉通りアグラ本人にデコトラを届けろという意味でそれを言っていたと思う。うん。間違いない」 アズレッタは既に確信していた。彼女の、マリーの祖父は―― 「アグラ運送協会は、三英雄の一人であるアグラが興した。  いいかマリー、最初に確認した通り、私は君の味方だ。  だから落ち着いて聞いて欲しい。――アグラは私の祖母だ」 「は……?」 「君の祖父の名は、ランスロー……いや、君が彼の孫なら――  君の祖父の名は『ランシロウ』だね?」 アズレッタが口にした名に、マリーが目を見開いた。 偶然であるとは思えない。 マリーの祖父――三英雄ランスローの望みが、 デコトラをかつての仲間であるガレオンとアグラの元に届けることならば、 その意志がデコトラとマリーを、アグラの孫娘であるアズレッタの元に導いたというのか。 「デコトラの中で話した心当たりというのも、三英雄ランスロー……ランシロウのことだ。  魔王討伐を果たした一人。私のお婆さま、アグラのかつての仲間。  どうだろう?君の祖父の名は、ランシロウで合っているだろうか」 「……はい。祖父の名前、Θ●ΞΞф△Θ▼◆、です。  ランシロー……ああ。ああ。なるほど。はい。ランスローです。  祖父、あー、発音、ぶれ、方言、そう、方言。方言、です。  祖父、方言、使います。言葉、音、おかしいです。  …………それで、あの」 「この大陸じゃ知らない人はいない有名人だ。  ――くれぐれも、落ち着いて聞いてくれ。私は君の味方だから」 マリーが不安げに頷いたのを確認し、アズレッタは説明を始める。 「彼は三英雄の一角に数えられている。間違いなく大陸で最も有名な人間の一人だ。  どこから話すか……この世界には、魔王と呼ばれるものがちょくちょく現れる」 恐らくは旧帝国が滅び、魔物が人の制御を失ったがゆえの影響と考えられている。 人に負けず劣らず大陸に蔓延る魔物の中に、ときおり極端に強い個体が出現することが、古くから知られていた。 それは歴史上例外なく北方――旧帝国の蜃気楼の都の方角から現れ、それは魔王と呼ばれる。 「魔物の王様なんて書くけど、別に他の魔物を率いて戦争を仕掛けてくるとか、そういうのじゃない。  そもそも魔物というのは頭が悪いし、あまり大きい群れも作らないんだ。  『犬より賢い魔物はいない』なんてよく言うし、たとえアリ型や蜂型の魔物だって、一つの群れは三十匹もいない」 昨夜の狼型の襲撃を、一応は自力で退けられたとアズレッタが確信する理由もここにある。 魔物は頭が悪く、個体数の多少という意味で大きな群れは作らない。 あの場にいた狼型の群れにアズレッタが認識していない個体がいたとしても、総数は十匹に満たなかったはずである。 アズレッタが後先考えず全力を出したならば、十分対応できる数だ。 「魔物は群れない。頭も悪い。  だから本来は、魔物を率いる魔物の王なんてものは存在しない。  それなら何でそいつらが魔王なんて呼ばれるかというと、魔王は強いんだよ。  そいつ一匹がいるせいで、他の魔物が一斉にその場を逃げ出すくらいに」 いったい何故なのか、人間を見かけると我先にと襲ってくる魔物ではあるが、 では魔物同士は仲が良いのかといえばそんなこともなく、普通の動物と同様、魔物同士も争い合う。 が、これも理由は不明であるが、そういった争いの果ての行動であったとしても、 魔物が旧街道を離れて逃げ出すようなことはほとんどない。 どれほど自身が弱くとも、どれほど相手が強くとも、魔物は故郷を追われるくらいならば戦って死ぬ。 もちろんアズレッタとマリーが先に出くわしたカマキリ型のような、 気まぐれな個体が何の気なしに旧街道を離れて移動することはある。 それらの中の一匹が、偶然他の旧街道に辿り着くこともあるだろう。 アズレッタが体を張って食い止めた昨夜の鬼型が、恐らくはこの例に当たる。 普段あの森に鬼型は現れないが、だいぶ離れた先ではあるものの一応は領内に、鬼型の魔物の生息地である山があるのだ。 だがそれも、大多数の同胞に比べて極めて奇特な一個体の話である。 水面の向こうを目指す魚がそうはいないように、魔物の大半は旧街道を離れない。 その唯一の例外が、魔王の出現である。 魔王が現れると、ほとんどの魔物が縄張りを放棄し、人間の居住区すらお構いなしに乗り越え、逃亡を始めるのだ。 「本当に逃亡経路にするだけなら、まだ可愛げもあるんだけど……  何しろ奴らは頭が悪いからね。敗走の真っ最中だというのに、そこに人間がいると襲わずにはいられないらしい。  結果として、魔物の大移動は人々の生活に甚大な被害をもたらすんだ」 理想を言えば可能な限り速やかに魔王を排除し、事態に収拾をつける必要があるのだが、 「簡単にはいかない。何故なら、魔王は強いから」 多くの動物がそうであるように、魔物もまた得意分野における能力は人間のそれを超える。 一方で、魔物の知能は明確に動物以下だ。 個々がどれだけ強力な生物であろうと、それらの性質を学び、理解し、武器や戦法を工夫することで、 人類はシステムとして魔物という存在を上回ってきた。故に今の繁栄がある。 が、その人類の歴史も、魔王という規格外を相手取るには力不足な面があった。 魔王の出現周期は、およそ百年から二百年に一度。人生で二体の魔王と同じ時を生きた人間はいないとされる。 魔王と対峙した経験は、次の魔王が現れる頃には伝説となっている。あまり役には立たない。 また魔王は、魔王と一くくりにされてはいても、強いということ以外は共通項を持たないことがほとんどである。 仮に魔王討伐の詳細な資料が残されていたところで、その知見は次の魔王には通じない。 それだけに、人類が魔王と相対する際に用いる戦法は、非常に単純になりがちだった。 魔王が死ぬか、せめて老いさらばえるまでひたすら耐えるという消極策を除けば、 圧倒的な数でもって制圧するか、圧倒的に強い個人をぶつけるか、そのどちらかだ。 「だいたい四、五十年前、時の魔王討伐を成し遂げたのは後者だった。  一人ひとりが強い――それこそ、今の私じゃ比べ物にならないほど強い魔法使いが、  三人でチームを組んで魔王を討伐したんだ」 今では三英雄と呼ばれ称えられている。生きた伝説。   「この領邦――『護剣』領の領主、三英雄のリーダーである勇者、ガレオン様。  私のお婆さま、私が最も尊敬する女戦士、アグラ。――そして」 「わたし、の、祖父……ランスロー……?あれが……?」 マリーに悪いとは思いつつも、人はここまで混乱と驚愕を顔に出せるものなのかとアズレッタは感心してしまう。 無理もないだろう。自分をいいように虐待していた宿敵が、実は世界を救った英雄であった。 誰がそんな事実を素直に認められるというのか。 今のマリーの心境を、アズレッタは生涯理解できないだろう。 「……正直なところ、君と初めて出会った時から、そうなんじゃないかとは思っていたんだ。  少なくとも、ランスローと同郷の人間なんじゃないかと」 マリーは見たこともない道具や食べ物を持ち、聞いたこともない言葉を話した。 アグラの話ではランスローも、あまり世間に知られていない不思議な知識を持っていて、言葉が不自由であったらしい。 「そして、お婆さまは家族以外にはこれを話さなかったけど……聞いたことがあったんだ。  『ランスローは、異世界からやって来た』と。本当だったんだね」 今も健在のガレオンやアグラと違い、行方不明となっているランスローの居場所を、 アグラはよく『元の世界に帰ったのではないか』と語っていた。ランスローはもともと異世界の住人だったというのだ。 誰も信じてくれないだろうからとアグラはこの話を身内にしか話さなかったし、 実際にそれを聞かされていたアズレッタも、異世界うんぬんについてはあまり信じていなかった。 例えば魔法だ。 異世界から来た人間なのであれば、かつて旧帝国に身体をいじられた人間の血を引いてはいないだろう。 それならば何故、ランスローは魔法使いになれたのか? この世界に訪れた彼への歓迎の証に、神か何かにプレゼントされたとでも言うのか? 祖母を誰より敬愛しているとはいえ、アズレッタにはアズレッタの常識がある。 「わたしの祖父、は……この世界の、英雄……?」 「うん。申し訳ないけど、誰もが頷く」 「違う……あれ、悪い人……あれは……」 「落ち着いて。勘違いしちゃ駄目だ、ランスローが英雄だろうと、君や周囲にしたことは許されることじゃない。  少なくとも私はそう思う。家の方針というものもあるだろうけど、  君の意志だって簡単に切り捨てられていいものじゃないはずだ」 世界に対して立場のある家に生まれながら、今まで好き放題やってきた、 それを許してもらったアズレッタだから、そう思うのだろうか。 アズレッタの知る範囲に限っても、何らかの家業のため、子の意志に関係なく厳しい訓練を強いる家というのは存在する。 それらの家の事情とマリーに何の違いがあるのかと問われれば、アズレッタはそれに即答することができない。 だが、それでも。 「君がそれを望まないのなら、黙って従ってやることはない。  ランスローは死んだんだろう?それに君は今、良くも悪くも君にとっての異世界にいるんだ。  これからはどうにでも自由に生きられるさ、違うか?」 「…………違う、違います。違わない、です。でも、わたし、は」 やがてマリーはうつむき、アズレッタに顔を見せず、動かなくなった。 口の上手さというものを軽視するアズレッタに、今のマリーにかける言葉などあるはずもない。 どうしたものかと時が過ぎ去るのを待つ。幸か不幸か、長風呂は好きで、得意だ。 「…………わたし、を」 何時間にも思えるような数分が過ぎ、マリーは顔を上げた。 あの凄まじい威圧を伴う怒気を警戒したが、そこにいたのは単にとても不安げで、とても悲しそうな少女だった。 「アズレッタは、わたしを、どうするですか?」 「どうもしない。君は君の望むようにしたらいい、協力する」 アズレッタは断言した。マリーが驚いた顔をするが、その考えは何となく読めている。 「君の質問の意図はわかる。ランスローはお婆さま――アグラの仲間で、私はアグラが作った組織の一員だ」 『私は君の祖父の仲間ではない』――かつてのアズレッタの言葉は嘘になったと言えなくもない。 アズレッタは決してランスローの仲間ではないが、 一方でランスローの仲間だったアグラが立ち上げた組織の一員、アグラ運送協会一級衛士である。 また、ランスローはあのデコトラをアグラに届けろと遺した。 運送協会員としては、あれをアグラに届けるべく行動するのが筋かも知れない。 「だから私も、君からデコトラを奪うなり何なりするんじゃないかと。そういう話だね?」 「はい……」 「結論を言うと、それはしない。ランスローの思惑に乗ることになるから。  正直、君の話を聞いて、私もランスローに失望した」 デコトラの性能、マリーの言葉、見せた不思議な物品の数々、祖母から聞いていたランスローの話。 既にアズレッタの中では、マリーとランスローが異世界の住人だというのは疑いようのない真実となっていた。 「だから、君がランスローにひどい目に合わされたというのも信じる。  ――最初にああ言っておいて、君の弱みに付け込むような物言いになるけどね。  今、私は、猛烈にランスローが気に入らない」 祖母アグラから、ランスローはかなりの子供好きと聞いていた。 マリーの話と食い違うが、死を目の前にしたことで人が変わってしまったのだろうか。 アズレッタも戦士だ。戦場において、命の危機に豹変する人間を何人も見てきた。 「でも、ランスローは、あなたの祖母の、仲間」 「ガレオン様には良くしていただいた。仮に今までのが彼の話だったなら、少なからず君に反感を抱いたと思う。  万一お婆さまの話だったら、今までの話はなかったことにして、君と敵対していたかも知れないな。  だが、これはランスローの話だ」 アグラは祖母だ。ガレオンとも親交がある。 三英雄を尊敬しながらも、一人の人間としての彼らを知っているアズレッタであるから、 唯一面識のないランスローへの思い入れは、他の二人へのそれに比べれば弱い。 「そこに命の恩人からそんな話を聞かされれば、幻滅もするよ」 「あれは、デコトラは、あなたの祖母に……」 「それを知っているのは私と君だけだ。二度と誰にも話さなければ、知らん顔すら必要ない」 本音をぽんぽん語っているつもりが、結果として迎合してしまっていると自嘲するが、構っていられない。 戸惑っている様子のマリーに、アズレッタは力強く頷いてみせた。 そうだ。これまで散々辛い思いをして育ってきたというなら、これからは。 「気に入らない奴の遺言なんて、守ってやることはないよ。  縁も所縁もない新天地に来たのをきっかけに、少しくらい自分の幸せを取り返したって良いんじゃないかな?」 「幸せ……」 マリーがじっとアズレッタを見た。 その表情が意図するところは読み取れず、ランスローのことを思う際の強い怒りも感じられなかったが、 一方でその視線には確かな意志が感じられて、アズレッタは何となく気まずくなって目を逸らしてしまう。 「……アズレッタは」 「あ、ああ……何だ?」 「アズレッタは、デコトラ、ある、嬉しいですね?」 「そうだね、あれは凄いものだ。力を貸してもらえればと思う」 「――わかりました」 マリーがぐっと身を乗り出した。 「祖父の、あー、遺言、見ません。あー……無視。無視します。  あれは、デコトラは、わたしたちのもの、です」 「いや、そこは君のもので良いと思うけれど」 「デコトラ、使うましょう。便利です。  ――では、わたしたち、これから、どうするですか?わたし、何する?」 「ああ、それなんだけどね」 やや身を引きながら、アズレッタはぴっと指を立てる。 「これからマリーが何をするにしても、後ろ盾はあったほうが良いと思う。  君の味方を名乗っておいて情けない限りだが、  もし君が今、密入国の容疑で捕らえられたら、私はその様を見守るしかない」 ランスローが死んだ以上、マリーがどうやってこの大陸に呼び出されたのかを知る者は もはやこの世にはいないのかも知れない。だがそれは恐らく、少なからず超常的なものだったのだろう。 となれば彼女は正式な手続きを踏まずにこの国に、この領に現れたこととなる。 誰もがアズレッタのようにお人好しではなく、誰もアズレッタほどにはマリーの現状を理解できない。 今のマリーは密入国者だ。やむを得ない事情はあったが、それを他人に説明するのはほぼ不可能である。 アズレッタの仕事が片付き、マリーが今すぐ誰かに傷つけられる可能性もないとわかった今、 まず取り掛かるべきはマリーの身分の保証である。アズレッタはそう考えた。 「そのためには……マリー、君は面白くないだろうけど、  やっぱりお婆さまを頼るのが最善かと思うんだ」 その言葉に、マリーは軽く眉をひそめた。アズレッタも彼女の反応は予想しており、軽く頭を下げる。 「すまない、君の大嫌いなランスローの仲間を頼るのが不快なのは百も承知だよ。  けど実際問題、君の立場を正規の手順で固めるのは難しい」 何しろこの世界は、この世界の外からの来客を想定していない。 「ならば正規でない手順を踏む必要があるけど、それはどうしてもある程度の権力が必要になる。  私の知るいくつかの伝手で、一番頼りやすいのはお婆さまだ。  お婆さまは……その、身内に甘いから」 家族であるアズレッタは良く知っている。アグラは他人に甘い。 身内であればなおさらだ。 親友ガレオンの娘が嫁入りする際、古い時代の説話にちなんだ縁起物を贈るため、 アグラはたった一人北方の険山に挑み、そこに生える珍しい花を自ら摘んできたこともあったという。 公私混同は本人もなるべく控えているようだが、 孫のアズレッタが呆れるほどには身内に甘いアグラだ。 数十年近く行方が知れなかった戦友の孫が現れたのなら、決して悪いようにはしないだろう。 下手をすればアズレッタ以上に、マリーへ尽力するに違いない。 「何を言い出すかはわからないけどね。  養子においで、くらいは言ってくるかも」 「それは……嫌です。困るます」 「あはは。そうなったら、私とマリーは姉妹になるね」 「祖母の娘は……あー、母?おばさん?ですね?」 「本当だ!」 アズレッタが素で驚き、マリーがくすりと笑った。 少々恥ずかしくはあったが、それで今、彼女の笑顔を引き出せたなら安いものだとも思う。 「……まあ、そんなだから、どうしても嫌というわけでなければ、お婆さまに会って欲しい。  君の身分証明もそうだが、今後のデコトラの運用という意味でも、  アグラ運送協会の象徴を初手で押さえておくのは都合が良いんだ」 断りなく街道をデコトラで走っていれば、多少の無茶をしてでも、運送協会はデコトラとマリーへの接触を試みるだろう。 逆に先に話を通してあれば、各地の運送協会の拠点を上手く利用できる可能性がある。 具体的にアズレッタが目をつけているのは、馬車の停留所や、積荷の集積所だ。 つまり、不特定多数の一般人が立ち入ることがない、運送協会の管理するスペースである。 そういった場所であれば、無用の騒ぎを招くことなく、比較的安全にデコトラを停めておくことができるだろう。 ここ代官の別宅へ走ってくるだけでもわかった。デコトラは想定していたよりもだいぶ目立つ。 走行中や、周囲に人の目の少ない野営時ならばいざ知らず、街中での安全な停留手段を確保するのは必須であった。 「メリットは大きいし、実現にあたってそう大きな難関もない。そこは保障するよ。  あとはマリー、君の感情の問題なんだが――」 「いいえ、大丈夫です。アズレッタの祖母、アグラさん、会うましょう」 マリーがあっさり頷いたことに、アズレッタはやや拍子抜けする。 アズレッタが提案したアグラに頼る案は、 要するにマリーが嫌っているランスローとの血縁を、積極的に利用する案である。 断られるか、それでなくとも少しは葛藤があるかと思っていた。 「……いいのか?自分で提案しておいて何だけど、これは――」 「利用できるもの、あります。なら、利用します。デコトラ、同じですね」 が、そう言って微笑まれては、アズレッタの方も言うことはない。 「なら、決まりだな」 アズレッタは勢いよく立ち上がった。頭に載せていた手拭いが落ちるも、湯船に届く前に器用にキャッチする。 「もろもろ片付けたら旅支度を整えて、私たちは領都に向けて出発する。  お婆さまに――三英雄アグラに会いに行こう」
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