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ギ、という音を立てて、山道に入る車道の途中で自転車が止まる。陽と自転車が作る風が止んだ途端に、湿気が混じった気怠い暑さを再確認させられた。
辺りはまだギリギリ夕方で、陽の着てる白いTシャツが、夕と夜の間でわかりやすく浮かんでいた。
「つーかこれ、使えんのか?」
カチ、と音を立てて、陽が懐中電灯をつけた。
今更それを確認するのは遅くないかと思ったけれど、どうせ結局使わないだろうから黙っておいた。
懐中電灯は電池切れか、電球の寿命か、今にも消えそうで心もとない光を懸命に発していた。陽は「ふむ」と何かに納得したように、不規則に揺らいで見える小さな光を消した。
そして、くるりと振り返ると、藪と道路の境界線になっている側溝を踏み越える。
「ほら、おいで、葵」
まるで、古い洋画に出て来るキザな男前が女の子にするみたいに、指先を掬いあげるようにして陽は俺の手を引いた。
小さい頃からの癖だ。なんの意味もない、ただの癖。
山の中腹にある、ちょっとしょぼい展望台の柵を乗り越える時。
ブラックバスがいるため池の、立ち入り禁止のロープをくぐる時。
田舎的には少し大きな交差点の信号を無視して横切る時。
さっきみたいに、沢へと続く藪とこちら側の境界を超える時。
陽は危険なところへのスタートラインを踏み越える時、必ずこうして俺の手を引いた。
そもそもそんなところに立ち入るなって話だけど、この田舎をどう頑張って探しても、面白いものはいつも、危険の隣にばかり存在していた。
もう、俺は手助けがなくとも越えられるというのに。俺は大きな手に導かれるままに、そこを跳び越えた。
草むらの中には道がある。人が歩いて踏み固められただけの狭い道だ。その道を進むと浅い沢があって、そこにホタルがいる。
――はずだったのに。時期を逃した俺達には、夜になりかけている薄暗い草むらしか見えなかった。
「探せばまだ一匹くらいはいんだろ!」
「それな」
俺達はむきになって探したけれど、結局一匹もいなかった。別に、いなくともよかった。楽しかったから。
静かにしないと、ホタルなんて出て来やしないのに。俺達は馬鹿みたいに騒いで、笑っていた。多分、ほんとうにいつもよりちょっとだけ馬鹿だったんだと思う。
見上げた空には星の海が広がり始めていた。
背の高い陽の、少しだけ姿勢の悪い気の抜けた姿でいるシルエットが薄い闇の中に浮かんでいて、俺はそれをどうしようもなく美しいと思った。
「あんだけ探して、結局一匹もいねぇのな」
「陽がうるさすぎたんじゃねーの」
「お前もだろうが」
水辺というだけあって、ここは少しだけ涼しい。騒ぐだけ騒いだ俺達は、なんとなくまだ帰る気にはなれなくて、沢の側をぶらぶらと歩いていた。
陽はその間、ずっと俺の手を引いていた。
ゆるく、ゆるく。俺がいつでも逃げ出せるように、握られた手。
それを自分からも握り返す勇気は、俺にはなかった。
「……俺さ、卒業したら、ここから出てく」
「いや、知ってるし」
若者はみんな、高校を卒業したら当たり前のようにこの田舎から出ていく。戻ってくる人もいれば、都会の生きやすさに絡めとられて、一年に一度すら戻ってこなくなる人もいる。
陽はどっちなのだろう。気になるけれど、それは行ってみないとわからない未来の話だった。
「大学、どこにすんの?」
「あー……一応」
挙げられたいくつかの名前は、俺ですら知っている都会の有名な大学だった。
「じゃあ、俺も進路希望調査、そっから選ぼうかな」
「お前なあ……ちゃんと自分で決めろ、そういう大事なことは」
呆れ声の陽は俺の頭をくしゃくしゃとなでた。これも小さい頃からの癖で、俺は未だに一日に一回はなでられている。
寝ぼけて家の鴨居に頭をぶつけそうになる陽と違って、俺の背が伸び悩んでいるのはそのせいなんじゃないか、なんて言ったら、意地悪く笑った陽にもっとぐりぐりとなでられるので、絶対言わないことに決めている。
俺の手を引いて、気まぐれに頭をなでて。
そのときの陽の顔に、ただの「年上の幼馴染」じゃない感情が混じっていることに気が付いたのは去年の冬だ。
クリスマスだっていうのに、陽はその年も俺の部屋に入り浸っていた。
「陽は彼女とかつくんないの?」
陽が女子にモテることを俺は知っていた。
なんでも、背が高いと男は二割増しで格好良く見えるらしい。その二割増しがなくとも、俺の贔屓目を抜きにしても、陽は整った顔立ちをしていた。
彼女なんて選びたい放題だろうに。なんで毎年俺の側にいるんだろうと、純粋に疑問だった。
「……葵は俺と一緒にいたくないんだなー」
「そんなことは言ってねーし」
「お? そーかそーか嬉しいか、俺と一緒のクリスマス」
「あーもうなでんな! やーめーろ!」
はぐらかされたのだと不満に思うのと同時に、少しほっとしていた。誰か、特別好きな女子がいるけど誘えないでいる、なんて言われたらたまったもんじゃない。
「葵、おいで」
おいで、なんて言われてのこのこ素直に寄って行く俺も俺だ。俺がいつからか「小さい頃からそう刷り込まれてんだからしょうがない」と言い訳を用意するようになったことを、きっと陽は知らない。
「なに」
いつもはうるさいくらいなのに、その時の陽は何も言わなかった。黙って俺の頬に触れてくるその手が、どうしようもないくらい冷えていて、それと同じだけ優しかった。
陽はじっと俺の目を見ていた。
落ち着かなかった。陽の黒みの強い瞳が、俺が何を思っているのかを見透かしてくるようで。
それ以上に、目の前の陽がまるで知らない男のように見えたから。落ち着けなかった。
その目に「俺のにしたい」と、言われているような気がした。
全て暴いて丸裸にして、噛み砕いて、全部飲み込んで俺のにしたい。そんな暴力的な情が見えて少し震えた。
それと同時に、毛布にくるんで、日の当たる場所で、ただ抱き締めていたい。そんな風にも言われた気がした。
見ているだけで心が日向にいるようにぽかぽかとしてくる、でも、見ているだけでこっちの喉の奥が詰まるほど苦しそうだった。
――あの時、俺も、と言っていたら。俺は、ずっと陽の傍にいることをゆるされたのだろうか。
「葵、どした?」
背を屈めて俺の顔を覗き込んでくる陽に、一気に五感が夏に戻ってくる。やっぱり、いくら水辺でも湿気と暑さは鬱陶しいなと思った。
俺のこれも、陽のそれも、おおよそ不毛な感情だ。
人が人に紛れてしまうような都会ならいざ知らず。ちょっと事件があったら、その噂が明日には町の反対側の家まで伝わっているような、こんな場所では。
「……ばいばい、陽」
「馬鹿、まだ半年以上いるっつの」
「そうだった、そもそも受かるかもわかんないし」
「このやろ」
また、大きな手にくしゃりと髪をかき混ぜられた。泣きそうだった。
「落ちたらおもしれーのに」
「何つーこと言うんだお前は……ああ、そんなにさみしいのかぁ葵ちゃんは」
「そうだ」とは言えなかった。言いたかった。言えない代わりに、俺はつま先で軽く陽の脛を蹴とばした。
二人共黙り込んでしまうと、途端に虫の声や草木が風に揺れる音が賑やかになる。辺りはすっかり夜になっていた。
見られている。あの黒い目に。
その視線から逃げたくて俯くと、頬を節くれだった指の関節がなでる。こそばゆくてそっぽを向くと、それを許さない手が頭の後ろに回った。
「……葵」
さっきまでずっと優しかった手に、少しだけ乱暴に押された俺の頭が前に傾いで、思わず陽の胸に手をついた。
あっという間に、ずっと昔から知っている匂いと、ずっと昔から知っている温度にくるまれる。条件反射で、体温を吸って温くなった陽の服を握った。
鼻先が触れ合ったのを認識した次の瞬間、俺の世界の呼吸が全部止まった。
静寂の中、陽の肩越しに光が一粒、さみしそうにふっと舞って消えたのが見えた。
「……帰っか」
思い出したように、長い指が俺の髪をかき混ぜて離れていく。匂いも温度も、全部、離れていく。
来た時よりも涼しくなった細い道。また、陽に手を引かれて見慣れた大きな背中を追いかけて歩く。
泣いてしまいたかった。
転んで擦りむいた膝に、血が滲んでくるのを見つけた時みたいに。
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