夜の底へ

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「水タバコですか?」 「うん、一昨年、アゼルバイジャンって国を 旅行してきたんだけど、その時に体験してね、」 「そういえば、最近も旅行の記事、投稿されて ましたよね?」 「ん?モスクワのこと?あれは招待だったんだ、 断れなくて。あまり行きたくはなかったんだけど」 「スゴいですね、色んな国に行かれてるんですね ?」 「じっとできない性分っていうか、 良く動くほうかも知れないね」 かと言って、目の前の彼からは(せわ)しない 風情は感じられなかった。 ふと、質問が浮かんだ。 「お子様は?」 「子供は居ないんだ。僕、元々、結婚もするつもり なかったんだけど、親身に仕事を教えてくれた ある方に、家庭を持ってみろと勧められて‥‥、 まあ、これでも色々あってね」 彼にも、他人に言えない事情があるらしかった。 私がそうであるように、 それは多分、家族絡みなんだろう。 遠く離れた他人同士が出会う時、何らかの 引き寄せが働いているのかも知れない。 それに、この(ひと)は、若い頃の実父(ちち) に、雰囲気が似ている気がしていた。 父は、叩き上げの、いわゆる仕事人間で、 私とは血は繋がっていないのに、一人娘として 大切に育ててくれた人だ。 実父は今、介護付き有料老人ホームに居る。 3年ほど前に、脳梗塞で倒れてからまもなく、 アルツハイマー型の認知症を発症したのだった。 時々、見舞いに行く私のことは、既に(おぼろ)げになっている。 私は、父に何もお返ししていないと思っている。 スムーズでいて、上っ面でもない会話の合間に、 彼は、スマホで水たばこを吸わせる店を検索し、 私達はホテルのラウンジを出て、タクシーを拾った。 久しぶりに、ワクワクしていた。 微風が、髪を撫でてくれ、 真夏の夜だという解放感も、私を後押ししている。 高層ビルが立ち並ぶ大都会のすぐそこに、昭和的な レトロを感じさせるエリアが存在していて、 そういうところも、不思議の森に迷い込んだ気分を 助長していた。 木造の長屋のうちの一軒が、シーシャ(水たばこ) バーだった。 想像していたものに割と近い。 ガラスの引き戸の向こうは、中東のような 或いは、1960年代のヒッピーを思い起こさせる、 インテリアで、天井が低い。 バーカウンターの向こう側に、長い髪を一つに 結えた店主が居た。 フレーバー選びに躊躇していたら、初心者ならばと、 ラズベリーを勧めてくれた。
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