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二話 予期せぬ運命
一体どこまで来ただろう。
帝国から持ち出した蜜も、蟲肉も、果実も七日で底をつきてしまった。
二人の騎士は忘却の女王蟻カルデニィアのために狩りをする。
けれども、やがてそれもままらなくなり年配のマウクラが亡くなると、若い樹木の下に彼を丁重に埋葬した。
マウクラを埋葬した後、ジャルが苦渋の表情で言った。
「カルデニィア様、身分を偽り乳母としてどこかの国に、受け入れて貰いましょう」
「けれど……。わたくしの香りで、女王蟻だと正体を見破られないかしら」
「卵さえ産まなければ……。このまま、見知らぬ土地でカルデニィア様を一人残し、土に還えるのは騎士として一番の無念です」
騎士たちは、自分たちの食料も率先してカルデニィアに渡していたために、思ったよりも衰弱が早い。最後の騎士であるジャルが死ねば、間違いなくカルデニィアは粗暴な天敵に囲まれ、命を落としてしまう可能性がある。
カルデニィアは、ジャルの手を握ると優しく微笑んだ。
「――――蟻たちの香りを辿って、どこかの国に向かいましょう。食料と寝床を貸して貰えるかもしれませんわ。少し待っていて、水を汲んできます」
「カルデニィア様にそのようなことは……」
「大丈夫ですわ。ほんのすぐ先ですもの」
カルデニィアはそう言うと、ジャルを木にもたれさせ、水の香りを頼りに草をかき分けた。しばらく歩くと小さな川を見つけ、膝をついた瞬間、華の香りがカルデニィアの鼻腔をくすぐる。
この川で赤茶の髪を洗い、体を拭いてジャルに水を持っていこうと考えていたカルデニィアだったが、嗅いだことのない不思議な華の香りに導かれるように立ち上がると、幽鬼のようにふらふら歩いた。
いつの間にか、茨の小道を歩いていたカルデニィアの腕に鋭い痛みが走る。
「アカシアの……棘? この先にアカシアの精霊がいるのかしら」
カルデニィアにとって、秘密の禁足地は伝説の聖地であり、秘密の宝石箱を見つけた子供のような気持ちで、心が踊った。
濃厚な蜜の香りのするこの先に、美しい黄金の華が咲いているのだ。
草を踏みしめ、棘を避けながら開かれた場所まで向かうと、そこには神秘的な黄金の華が満開に咲いたアカシアの木がそびえ立っていた。
それ以外は小さな草花ばかりで何もない。
その中に立ち尽くす、退廃的な長い金の髪の亡霊。
――――男の人、かしら……あれが、アカシアの悪しき精霊?
髪に隠れていても、大木の前で佇む色白の青年が全裸であるのは分かった。カルデニィアは今まで一度も、異性の裸を見た事が無い。
原則、帝国の騎士はすべて異性である。
彼らは女王蟻と閨を共にするために存在し、他の女たちは、女王蟻の卵や子供たちを育て、狩りに出たり、街で働く労働者階級ばかりだ。
彼女たちも、異性の裸体を見る機会はないが、間違いが起きないよう、それなりに羞恥心というものを教育されている。
だが、その役割を完全に放棄させられたカルデニィアにとって、全裸の男を恐れたり、羞恥する事は無かった。
「ねぇ、貴方……。アカシアの精霊?」
『…………』
まるで幽鬼のような透明な肌と、碧色の瞳をした美しい青年が、ゆっくりとカルデニィアの方に振り返った。
その表情は、困ったように首を傾げて、静かにカルデニィアを見つめる。
その反応はまるで、待っていた人物とは異なる者が、この地に足を踏み入れてしまったかのような戸惑いを感じた。
「貴方は、わたくしの言葉が解らないの?」
『……』
アカシアの精霊は無言のまま、カルデニィアを手招く。その指先に導かれるように、忘却の女王蟻は長身の精霊の元へと歩み寄った。
そしてゆっくりと冷たい指先に触れる。
全裸のままでいる彼が不憫に思え、カルデニィアは、自分のマントを彼に手渡す。
布地の手触りを確かめ、不思議そうにする彼は、カルデニィアの厚意を受け取るとゆっくりと女王蟻のマントを羽織る。
「これで少しは暖かくなると……思うの」
『…………』
彼の側に寄ると、その美貌と濃い蜜の香りに惹きつけられた。どこまでも深い碧色の瞳も邪悪さは感じられず、澄んでいる。
その瞳を見ると全身が痺れ、抵抗することがいかに愚かな行為だと、耳元で囁かれているような気分になった。
アカシアの精霊の指先が、カルデニィアの顎を捕えると、無言のままゆっくりと口付けた。
喉を潤す甘い蜜が、彼の舌先から流れ落ちると、カルデニィアの瞳に映る色彩は鮮やかになり、五感のすべてが研ぎ澄まされるような感覚に酔いしれた。
――――なんて、美味しい蜜かしら。甘い蜜、ああ、この胸の高鳴りはいったいどうして?
『…………蜜。わたしと貴女を繋ぐもの』
「貴方、話せるのね? わたくしはカルデニィア。貴方は、アカシアの精霊……? わたくしに貴方の名前を教えて」
『わたしの蜜で、こうして話せるようになった』
カルデニィアは、めずらしく矢継ぎばやに青年に質問を投げかけた。
喉を潤したのは伝承にある『滅亡の蜜』のはずなのに、彼女は頬を染め、陶酔するようにアカシアの精霊を見上げる。
これは、騎士へ抱く愛情とは異なり、世界中を渡り歩いても、彼の代わりは巡り合えないとさえ思えた。
これが『愛』なのだろうか。
女王蟻が誰にも抱くことのない忠誠、執着、独占欲のような例えようもない感情。
『わたしの名前はルカ。はじめの騎士を待っていたが、わたしのもとにやってきたのは、女王蟻の貴女だった』
「ごめんなさい……。ルカは騎士を待っていましたの? わたくしの騎士ジャニは弱っていて……別の場所で休んでいるのです」
『――――構わない。こうして話すことができれば。ずっと、貴女を待っていた。ここには国が栄えていたが、わたしの奴隷たちは死に絶えてしまった。わたしは貴女が来るまで、ただ母のように枯れるのを待つだけだった』
ふと、アカシアの木を見ると枯れた葉がヒラヒラと宙を舞い、地面に落ちている。
その物悲しさと儚さは、朽ちていく美しさを感じた。
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