第一話

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第一話

 三千院の参道の途中には今年で五十五歳になる片桐(かたぎり)と云うマスターが経営している喫茶店がある。その店はバスで来るお客さんは余り通らない参道で、お詣りに来る人が全てが通るわけでもない。少しひねくれた人しか通らないかも知れない。だからご近所さんには持って来いの休憩場所になっていた。そんな中途半端な場所だから、知る人ぞ知る隠れ里のように参拝の疲れを癒やしてくれて、安らぎが漂う店にも成っている。だから唄のとおり恋に疲れた人も立ち寄れる店だ。  店のカウンター席は常連で占めるが、疎らに五つあるテーブル席は観光客の人数に応じて椅子の増減が出来た。参道からはずれたお陰で車の駐車スペースはこの辺りでは広くそれで多彩な客が来る。   店の飾りには民芸品をさりげなく置いて在るのもその雰囲気を醸し出している。それは娘の夕紀(ゆき)の好みでも有る。この店から五分ほどの所に自宅が在り、そこは更に参道から外れてしまう。自宅には七十八歳になる婆さん、片桐の母親が住んで居る。他に一男一女の子供をもうけたが離婚して、今居るのは引き取った娘の方だ。息子は別れた女房が引き取って片桐は娘を育てた。  不思議なことに別れた女房と云っても時々はこの店にやって来る。もちろん客としてだから無下には出来ない。だが本人に云わすと「あなたでなく娘に会いに来た」と訳の分からぬ理屈を並べて云いたいことを言って帰る。  娘に会いに来るなら別れた亭主の居る店に来なくて自宅に行けば良いものを、全く訳の解らん女だ。しかも娘が店を手伝いに来る時間でなく、大体は午前中の娘が大学に行っている時間に顔を出すから益々理解に苦しむ。  今日も片桐は店の暇に任せて、新聞を読んでいると、別れた女房がやって来て「何なのこの店は主人がのうのうと昼間から新聞を読んでるなんて」と客なのか離縁した相手なのか解らんから困ったもんだ。 「今更お前の知ったことではなかろうが元の鞘に収まるのなら別だが」 「頭を下げて貰っても戻るわけないでしょう」  とフンと鼻息も荒く云われる。 「ならどうしてわしの所へ来るんだ」 「あなたの所でなく娘に会いに来ただけよそれにここは喫茶店でしょうあたしが客として来て何処が悪いの」 「別に悪くはないが世間体っちゅうもんがあるだろう」 「娘に会いに来てるんだから別に誰も何とも思ってないわよそれにここでは知ってる人は居ないわよ」 「夕紀なら店でなく自宅へ行けば良いだろう」 「ここなら黙っていても珈琲が出るけどあそこにはあのいけ好かないババアが居るでしょう」 「まあ表から来れば客だから追い返すわけにも行かねぇか」 「ちゃんと売り上げに貢献して上げてるんじゃないのもうちょっとましな事いえないの」 「まあ普通の客なら良いが別れた女房になんて言えば良いんだ」  そこへドアのカウベルが鳴り響き、夕紀がやって来た。  もう二人ともいい加減により戻したら、といつもは勝手口から来るのが表から店に入って来た。  どうしたんやと聞けば、今日は大学に行ったが休講だそうだ。 「何だ先生も気楽なもんだなあ」  まあお陰で今日はいつもより早めに店に出てもらった。  しかし何処で聞きつけたのかさっそくに、六十半ばを超えて髪が薄くなった近所に住む北村(きたむら)と云う親父がやって来る。親父は娘の居るカウンターと対面するように座る。その前に彼らと入れ替わるように離婚した妻が娘に一声掛けてそそくさと店を出た。 「なんやあのおばはんたまに見かけるなあ」  と夕紀にさっそく愛想笑いを浮かべる。
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