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 ねえ、ミライ。  本当に大切な思い出は、言葉では伝えきれないものだ。心の中でならきらきらと光輝くのに、表に出すと、あまりにもくだらないものになる。  たとえば、見た夢の話なんか、これに近いものにならないだろうか。話している側は愉快なのだけれど、聞いている側は退屈で仕方なくなる。または子供――それも幼児がする話だ。幼児は素晴らしいこと楽しいことを話しているつもりなのに、聞いている大人は、そんなものでこうも盛り上がれるのかと、呆れと微笑ましさでいっぱいな気持ちになっている。  彼らと関わったのは、ぼくが少年とも大人ともいえない頃。ぼくはそこで生涯で唯一の関係を築いた。その関係はどのようなものか表現する言葉がいまだにわからない。友達ではあるけれど、それだけじゃもの足りなくて、親友というと首を傾げ、だからといって家族なんてものじゃない。たぶん、仲間というとしっくりくる。でも、まだ何かが違う。言葉というもので表現することをぼくが拒んでいるから、どの単語を差し出されても納得しないのだろう。  ただ言えるのは、あの関係は「ぼくら」だった。「ぼくら」。この意味は辞書に載っていない。しかし、ぼくと同じ関係を築いたものなら、「ぼくら」というニュアンスが伝わるだろう。友達でも、友人でも、親友でも、仲間でも、ましてや家族でもない。他人でありながら、大切なものだと互いに認識している。人生の、かけがえのない時間を共有したやつら。  そこには、ぼくがいて、ユキノジョウがいて、ヒツジコがいて、そして――彩子(サイコ)がいた。それがぼくらだった。ぼくらが過ごした時間は、正確なものはわからない。ずっとそばにいた気がするし、半年にも満たなかった感じもする。それなのに、ぼくの中ではどんな記憶よりも輝いている。  それは、今から十四年前。ぼくらは『十六歳』で、子供で、ここにいたくて、そしてどこかへ行きたかった。大人になんかなりたくなかった。子供のまま、この場所に留まり、誰も知らない場所に向かいたかった。
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