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7
一月の暖かい日だった。その時、ぼくは買い出しに行き、一人で風を受け歩いていた。ちょっと時間が早く終わったので、遠まわりして帰ろうと散歩をしていたのだ。海辺のそばの道を歩いていると、柑橘類みたいにツンとした匂いの風がぼくに吹きつけた。目を細めて、冬の香りを楽しむ。前を見ると、海と空があった。
すると、そこに、彩子がいた。
最初は誰か気づかなかった。彩子は髪の毛をしっかりとセットしていて、夜会巻きみたいになっていた。そのうえ化粧をして、フワフワの毛皮のコートにドレスのような黒いワンピースを着ていたからだ。ヒールの少し高い、キラキラしたパンプスの足は震えて、今にもこけてしまいそうだった。
ぼくは女の子の姿をした彩子は初めてだった。とかしもしていない髪に、伸び切ったトレーナーを適当に着て、大きめのシャカシャカを合わせていたのが彩子だったから。その姿は彩子らしくは全くなかったが、可愛らしく、小悪魔みたいな魅力があった。あらためて見ると、ユキノジョウほどとは言わないが、彩子も十分に美少女と言ってよかった。深い彫りのある目元や、高い鼻がぼくの心を少しときめかせた。
彩子は海と地上を隔つ柵にもたれかかり、遠くを見ていた。いつものキラキラと何かに反抗するような瞳だった。彩子にはうちに秘める強い強いパワーがある。それは何かをいつも否定していた。負けるものかと、強く強く生きていた。でも、相変わらず顔はもう死んでしまったかのように、儚かった。
それなのに、どうしてだろう。声をかけられないばかりか、ぼくは電灯の影に隠れた。見てはいけないものを見てしまった気がしたからだ。胸に残る微かなときめきも、本来なら感じてはいけないのではと、罪悪感を覚えて、咄嗟の行動だった。
何故、彩子はランドマークにいたのかわからない。本当はぼくたちにそんな姿を見せにきたのかもしれないし、ランドマークで何か用事がありあんな服装をしていたのかもしれない。
でも彩子は不意にパンプスを脱ぐと、海に投げ捨てた。
裸足になって地面を蹴る。次に足の付け根からナイフを取り出すと、いきなりスカートを切りつけた。足ごと切り捨てるみたいな勢いで、スカートを引っ張ると迷いなくスカートにナイフを下ろしていく。地面に薄い光がこぼれ落ち、彩子の影をぼんやり映し出していた。
その姿は奇妙なものだった。彩子は影と遊ぶみたいに、踊るみたいに、スカートを切り刻んでいく。影はくるくると舞って、夢のかけらみたいにスカートの切れ端がはらはらと落ちていく。彩子は自分の足を貫いてしまうぐらいの勢いでナイフで布をちぎっていった。綺麗なツヤのかかった、ビーズで模様作られたスカートは、パラパラと雫のようにビーズを撒き散らし、フワフワと風に揺れた。影はそれを楽しむかのように、ゆらりゆらりと揺れる。
固めてあったのだろうか。髪も無理にぐしゃぐしゃにすると、くるりと一回転して、ズタズタのスカートを翻した。
彩子は笑って、毛皮のコートも海に投げ捨てる。ドレスだけになった彩子は、海に飛び込んでボロボロになった幽霊のような姿だった。陽が陰り彩子の影は消えてしまう。海に視線を移すと、波に揺られる毛皮のコートも気にせず、遠くを睨んでいた。柵を蹴りつけて、彩子は輝く瞳で何かを見つめていた。
こんな姿じゃ何をされるのかわからない。ぼくは彩子に駆け寄って、コートをかけてあげたかった。「何をしているの」と聞いて、「遊んでただけだよ」なんて答える彩子を見たかった。でもぼくは動けずにいた。
彩子は目を閉じる。すると光は消えて、死んだような顔だけ残された。彩子は、目を閉じると遠く昔に消えてしまった人間に思えた。この彩子をぼくは思い出してるだけの、儚く切ない存在。
心配というよりも、心細くなってしまう彩子がいる。
目を開けると、彩子はナイフをしまって、裸足で歩きだした。ぱらりぱらりとビーズの残骸を落としながら、胸を張って歩いていく。
彩子は、何を思ってこんなことをしたのだろうか。海には捨てられた毛皮のコートが波に揺れて、海水を吸いながら少しずつ沈んでいった。多分、これは本当に見てはいけないものだったのだと感じた。
彩子が遠くに消えていく。彩子のあとを辿るように電灯から顔を出すと、まるで涙の跡のようにビーズがきらりきらりと光を反射していた。
その翌日、彩子は顔を赤くしながら、ぼくの家に現れた。ゴホゴホと咳をしながら、雨に濡れた髪を玄関で絞る。ぼくとユキノジョウは大慌てでタオルなんかを渡すと、彩子をベッドに座らせる。
「ねえ、傘はどうしたの?」
着替えさせようと思ったのか、ユキノジョウは女装の服と自分本来の男子な服を持ち迷いながら口にした。彩子は熱でテンションが上がっているのか、ケラケラと笑いながら「ビル風で壊れたから捨ててきたんだ」と言う。
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