陽炎鬼子

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「よぉ、まだかよ」  観光案内所の受付に置かれていた、ムクロジの実が詰まったバスケットを眺めていると、京介が苛立った声を上げた。  慌てて初老の受付に一礼すると、八宵(やよい)は参道を恋人のもとへ走った。彼女が追いつくのを待たずして、彼はさっさと歩き出す。まるで面倒な仕事を早く切り上げたいと言わんばかりに。  久方ぶりの内地旅行の行き先に、ここ調布の深大寺と植物公園を希望したのは八宵だった。よりメジャーなスポットを巡りたがった京介は却下こそしなかったものの、その代わりに露骨に不機嫌になった。移動手段を決める際など、彼は彼女が船を提案しただけで、お得意の鋭い舌鋒で徹底的にやっつけてしまった。 「バカだな船なんかで移動したら、それだけでせっかくの休みが一日潰れるんだぞ。頭を使えよ、頭を! 調布飛行場まで飛行機で移動して、それからバスを乗り継いだ方が遥かに効率がいいじゃないか。君も島民なら、それくらいわかるだろうが」  京介はいつも正しい。なんでも知ってるし、判断も常に的確だ。大学を卒業してすぐ島の役場に就職できたのも、ひとえにその才覚ゆえだろう。  だが、そんな彼にも知らないことはある。たとえば彼の交際相手が飛行機に乗っている間中、足の指をぎゅっと丸めていたこと。一度も窓の外を見ようとはしなかったこと。それから、さっきから足が少しふらついていることなんかも。  彼はずんずん先導する。文字通り三歩後ろを歩きながら、八宵は懸命に込み上げてくる吐き気と戦っていた。  観光客は多かった。不慣れな雑踏で、彼女は乗り物酔いならぬ人酔いに陥りかかっていた。あれほど楽しみにしていたそば屋の居並ぶ山門前の通りも、さらさらと涼やかな音を立てる流水も、お土産屋の棚から客を睥睨する大小さまざまのだるま達も、彼女の目を惹かなかった。店の軒先に下げられた風鈴の音さえもが、なんだかばかに甲高く響いて、気分の悪さを煽るようだった。  山門を潜ったところで、京介が言った。「俺、ちょっとトイレ行ってくる」 「ねぇ、待って……」 「その辺にいて」  返事を待たずに、彼は行ってしまった。  その辺と言われても、身を休ませられそうな日陰といえば、境内の片隅に立っている大きなムクロジの木しかなかった。仕方なく彼女は、ほとんど這うような足取りでそちらへ向かった。木の下にたどり着いた時には、目の前が暗幕でも降ろされたように暗くなっていた。  不意に、先日見たニュースが、何の脈絡もなく脳裏をよぎった。  某月某日、都内の某駅にて高齢者が熱中症で死亡した。警察の調べによるとその男性は、長時間駅のベンチで横たわっていたにもかかわらず、誰にも顧みられることなく放置されていたのだという。ある駅員は、こう語ったそうだ──泥酔客だとばかり思っていた。  ひょっとしたら自分も、あのおじいさんと同じ運命を辿るのかもしれない。  膝を抱えるようにしてへたり込みながら、八宵は大袈裟なようだけれどそんなことまで考えていた。  だから、不意にその声が頭上から降ってきた時、彼女は冗談や誇張でなく、それを天使の声のように感じてしまったのだった。 「大丈夫か、あんた?」
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