陽炎鬼子

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 天使にしてはぶっきらぼうな声の主は、まだ十八、九になりたての少年といった趣だった。  呆気にとられて口を半開きにする八宵をよそに、白い無地のTシャツにジーンズ姿の少年はスポーツドリンクのボトルを差し出した。無造作に、ごく当たり前といった調子で。 「それ、まだ開けてないから。飲みなよ。あんた、脱水症状になりかかっているように見えるぜ」  あんまり自然に渡されたので、八宵も自然に受け取ってしまった。促されるまま、まるで催眠術にでもかかったようにドリンクを飲む。初めはちびちびと、途中から一息にがぶがぶと。文字通り染み渡るように美味かった。 「どうやら大丈夫そうだな。こんな日は帽子くらい被りなよ。じゃ」  八宵の頭の霞が晴れたのは、この時だった。 「待って」  声を張り上げたつもりだったが、出てきたのは掠れたような呻きだけだった。仕方なくよろよろと立ち上がり、救い主を追う。  少年は足が速かった。  今しがた倒れかけた身にはこの追いかけっこは酷だったが、しかし彼を追って西門を潜り抜けた時、彼女はしばし体調不良も忘れて、長々と感嘆の吐息をついてしまった。  そこは木々が織りなす、天然のトンネルだった。まだ若いもみじの葉が、道端に立ち並ぶ「延命観生音菩薩」の赤い幟とコントラストを醸し出している。秋の見頃を迎えればさぞかし見物客で賑わうのだろうが、今は通る者もいない。蝉の声さえ遠のいたような静けさの中、枝葉が投げかける影を軽やかに踏みしめる少年を追いながら、八宵は刹那、自分が絵画か何かの世界に迷い込んだような錯覚を覚えた。  と、不意に少年が、ひょいと右手へ折れた。そこは石垣をくり抜くようにして設けられた小さな祠で、中には大きな石に彫りつけられた観音様が納められていた。その観音様に向かって、彼は掌を合わせていた。 「何?」  釣られて一緒に手を合わせる八宵に、少年は少し気だるげに言った。 「いえ、その、ちゃんとお礼もできてないのに」 「いいよ、そんなの。たかがドリンク一本だし」 「でも……」 「それより、もっとちゃんと拝んだら。この観音様、親しい人の健康運を高めてくれるらしいぜ」  彼女はおもむろに、かぶりを振った。「ううん、もういい。私の家族、ずっと前に死んじゃったから」 「そっか……悪い」後ろ頭を掻きつつ、少年は詫びた。「無神経なこと言ったかも」 「気にしないで。本当に大昔のことだから」 「それでも、他にも誰かいるだろ。友達とか、恋人とか」 「うーん、私、基本的にネクラだから……」そこまで言いかけたところで、彼女はようやく、自分を探しているであろう人物のことに思い至った。「大変、京介のとこに戻らないと。本当にありがとうございました」  だが慌てて踵を返す彼女のあとを、少年はついてきた。「そこまで見送らせてよ」 「でも……」 「あんた、自分じゃ気づいてないみたいだけど、まだ足がふらついてるぞ。また体調崩して倒れられたら、なんとなく寝覚めが悪いや」  八宵は困ってしまった。  少年の言葉に、下心はまるで感じられなかった。だが自分が見ず知らずの男の子と並んで歩いているところを見たら、京介は何というだろうか。かといってカップル間の機微を、初対面の男の子相手にうまく説明できる自信もないし──。  だが彼女の葛藤は、まったくの杞憂に終わった。あれからずいぶん時間が経過したはずなのに、境内のどこにも京介の姿はなかったのである。 「連絡はつかないのかい」まるで迷子になった子供のように、ただあたりをきょろきょろと見回すばかりの八宵に、少年は言った。 「うん。なんでか知らないけど、電話はちっともつながらないし、メールも既読がつかないし……」  事情を説明する八宵の声は、しだいに泣き出しそうな響きを帯びていった。  この頃の彼は、デート中だろうがしょっちゅう席を外しては、誰かと連絡を取り合っている。誰と話しているのか尋ねても「それって詮索?」と、さも心外だと言わんばかりの刺々しい返事が返ってくるだけだ。  カンの鈍い彼女でさえ、それが本当に業務連絡なのか怪しいものだと思い始めていた。いったい離島の役場職員とは、プライベートでさえも連絡を取り合わねばならないほど忙しい職業だっただろうか? よしんば本当に仕事の用だったとしても、何もこんな、右も左もわからない土地に自分を置き去りにしてまで、やりとりにうつつを抜かさなくてもよいではないか。  心の中で恋人をなじる八宵をよそに、少し肩をすくめて少年は訊いた。「たとえばあんたとその人、次はどこに行くとか決めてなかったのかい」  くぐもった声で、彼女は答えた。「植物公園……」 「じゃあ、そこに行ってみようぜ。もしかしたらうっかりあんたをおいて、先回りしちまっただけかもしれないぜ」  公園までの道を行く間、彼は先刻とは打って変わって、緩やかな足取りだった。本当はもっと早いペースで歩けるはずなのに、いい年をして迷子のようにとぼとぼと歩く彼女に、嫌味一つ投げかけてはこなかった。  この人は私のことを、本当に気遣ってくれているんだ。初対面のはずの、私のことを──そう思うと、彼女は次第に元気を取り戻していった。
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