第二話/ポルトレ描きの少年

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第二話/ポルトレ描きの少年

   翌日、できる限りの埃を払い、服のしわを伸ばして髪にも櫛を入れ、緊張で身を固くしながらヴィトーは母屋の勝手口へ訪れた。 「ヴィトーだね。旦那様から聞いている、テラスへ回りなさい」  母屋を取り仕切る執事から、テラスへ行くように指示されたヴィトーは、勝手口から屋敷の外を通って庭へと向かった。自分の汚い靴で磨かれた床や高価な絨毯を踏むのは憚られたので、外から回れることにヴィトーは安堵した。  庭には半屋内のサンルームがあり、そこから続くテラスで、伯爵一家が歓談していた。真っ先にアデーレがヴィトーを見つけ、大きく手を振る。 「ヴィトー、こっちよ!」  ヴィトーは低頭し、おずおずと名前を告げた。下働きの小僧が、こうして伯爵の家族に会うことなど滅多にないので、どう振る舞っていいかわからなかったが、ペルコヴィッチ伯爵は気さくな口調でヴィトーの来訪を歓迎してくれた。 「娘から聞いているぞ、お前は随分と達者な絵を描くんだな。今度のパーティーでは、楽しませてくれよ」 「じゃあ早速、描いてもらおうかしら。そこに道具は揃えておいたから、好きなのをお使いなさい」  バージットが扇子の先で示したテーブルには、アデーレからもらった画材より、数段上等な品々が並べられている。ヴィトーはそれを手に取り感動した。こんな立派な軸の黒鉛や、滑らかで白い紙は見たことがない。 「教養のない下男が、本当に絵など描けるのですか?」  階級主義の長男セルジュが、見下したように嘲り笑う。そんな兄の言葉に腹を立てたアデーレが食ってかかった。 「お兄さま、ヴィトーは才能があるのです。それを証明しますから、そこでご覧になってらして」  アデーレは椅子をヴィトーの近くに運び、浅く腰かけてポーズを取った。距離感も目線も、最もヴィトーが描きやすい塩梅をアデーレは熟知している。そして、いつものようにふわっと人懐こい笑顔を見せた瞬間、ヴィトーは緊張が解けていくのを感じた。  やがて絵が完成し、アデーレがそれを家族のテーブルに持って行った。いつもの粗い木炭画ではなく、繊細な線で表現されたアデーレの姿は、上品で若々しい魅力に満ち溢れている。 「まあ、アデーレ、なんて可愛らしいのかしら」 「おお、見事だな。こんな短時間でこれだけ描けるのなら、パーティーでも相当な人数をこなせるんじゃないか」  それを傍から見ていたセルジュも、絵の仕上がりには納得したようで、皮肉屋の彼にしては珍しく及第点を与えた。 「うむ、まあこれなら客の前に出しても恥ずかしくはないだろう。せいぜい失礼のないように振る舞うことだな」  やがて伯爵、夫人、セルジュの絵が描かれ、最後に家族揃っての一枚が完成した。ヴィトーは気を良くした伯爵一家から、心付け代わりに先ほど使った画材をもらい、執事からは台所の残り物を持たされた。  家路につきながら、ヴィトーは包みの中から立ち上る食べ物の匂いに激しい空腹を覚えたが、ふとある事に気づいて立ち止まった。このまま叔父の家に帰れば、恐らく全て取り上げられてしまうだろう。先日、伯爵夫人がくれた小遣いも、有無を言わさず奪われたのだ。  そう思った瞬間、ヴィトーは今来た道を引き返した。そして、馬小屋二階の物置に画材を隠し、残り物を腹いっぱい食べた。それから何食わぬ顔をして家に帰り、自分が食べた余りを叔父に渡した。案の定、ヴィトーには一切の分け前はない。わかっていたことだ。同じ家に住んでいるだけで、自分は彼らの家族ではないのだ。  この日ヴィトーは、自分の絵がわずかでも稼ぎになること、そして稼ぎは自分で守らねばならないことを学んだ。傷つくたび、虐げられるたび、少しずつ賢くなる。親のいないヴィトーにとっては、この広い世界の中で、自分だけが唯一信じられる存在であった。  パーティー当日、ヴィトーは母屋の女中によって煤けた顔を拭われ、鳥の巣のような髪を散髪され、侍従のお古のシャツとズボンに着替えさせられた。その甲斐あって、服の中で痩せた体が泳いでいるのを除けば、なかなか見られる格好になった。 「皆さま、ご紹介しますわ。我が家のお抱え画家、ミロスラヴです」  アデーレが張り切ってヴィトーをゲストにお披露目する。今日の彼女は白地に黄色いレースがあしらわれたドレスで、まるでマーガレットの妖精のようだ。先日授かったばかりの仰々しい雅号で呼ばれ、ヴィトーは面映ゆいことこの上なかったが、付け焼刃で練習したお辞儀をして拍手を受けた。内心では、このまま逃げ帰ってしまいたい気分である。それでも公然と絵が描けることは純粋に嬉しい。  来客のご婦人方は皆、甘い笑顔の少年画家に興味を持ち、こぞってポルトレ(肖像画)を描いてもらおうとした。大勢の客に応じるため各人わずか数分しか費やせないが、ヴィトーは的確にモデルの特徴を捉え、さらには本人が「こう見られたい」という願望を見事に描き出した。後に「肖像画の魔術師ミロスラヴ」と称えられる天賦の才は、この時すでに芽を出していたのだ。 「まあ、本当に上手ね。王都の有名画家に書いてもらった肖像より、私の雰囲気がよく出ているわ」 「どれどれ、ご婦人方が終わったら、私のも一枚描いてもらおうかな」  最初は遠巻きに見物していた男性客も、そのうち絵の出来に感心して輪に加わった。貴族や金持ちの紳士ばかりなので、ヴィトーは恐れ多くて委縮したが、それがかえって功を奏したようだ。ポルトレの中の男性たちは皆、知的で立派な押出しに描かれており、それが彼らの自尊心をくすぐった。  結局、この夜ヴィトーは30枚ほどのポルトレを描いた。その画面の左下には、小さくMiloslavの署名が入っている。落書き小僧だったヴィトーが、初めて画家として世に出た記念すべき第一歩である。そしてこの体験で、ますますヴィトーは絵が好きになった。描いても描いても尽きない、泉のような情熱が自分の中から湧いてくることに、ヴィトーは本能的な喜びを感じた。 「大儀だったな、ヴィトー。お客さまが大層お喜びだった。これはお前の稼ぎだよ」  余興が好評だったため伯爵は上機嫌で、ヴィトーに布の包みを手渡した。中には銀貨が5枚、銅貨が26枚。ポルトレを描いた客からの心付けと、伯爵家からのご祝儀である。貴族からすれば小銭を投げたくらいの感覚だろうが、ヴィトーにとっては冷汗が出るほどの大金である。  迷った挙句、ヴィトーは銀貨を画材の箱の中に隠し、叔父には銅貨だけを渡すことにした。叔父は金には卑しい性質なので、パーティーに呼ばれた時点で小遣いを期待しているはずだが、祝儀の相場など知りはしない。たくさんの硬貨を見せれば、きっとそれだけで喜ぶはずだ。  ヴィトーはそのうち、叔父の家を自ら出るか、もしくは追い出されることになる。いずれにしても彼らとはこの先、長くは一緒に住まないはずなので、その時にはこの金が必要になると確信していた。  ただでも、屋敷で働いた給金は全て生活費として没収されているのだ。せめて絵で稼いだ金は、叔父たちに食い散らかされたくない。ヴィトーは画材を物置の奥にしまい込むと、叔父が手ぐすね引いているであろう家へと、重たい気持ちで足を向けた。
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