第三話/ペルコヴィッチ伯爵の第六感

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第三話/ペルコヴィッチ伯爵の第六感

 どんな才能でも、埋もれていれば人知れず枯れてゆくが、ひとたび衆目に晒されれば、驚くべき速さで事態が走り出すことがある。ヴィトーの場合がまさにそれであった。 「馬の絵、ですか?」 「ええ、先日の馬術大会で優勝した、我が家の駿馬を描いていただきたいのです」  ペルコヴィッチ伯爵領は、夫人であるバージットの実家の事業を導入し、馬の産出を盛んに行なっている。そのため、領内の富裕層には馬主も多い。この日はその中の一人、領都レヴェックで大きな油問屋を営む商人からの相談だった。先のパーティーでポルトレを描いた少年に、ぜひ愛馬の絵を頼みたいという。 「いや、どうでしょうな。あれは本職の画家ではなく、うちの下男です。たまたま絵が上手かったので余興に描かせましたが、お屋敷に飾られるおつもりでしたら、もっと格のある絵描きに頼まれてはいかがですかな」  伯爵がやんわりと断ったが、商人は困った顔をしてため息をつく。 「それが……、高名な画家になるほど、馬だけの絵は嫌がるようでして」  この商人は大がつくほどの馬狂いで、特に件の優勝馬には入れあげている。丹精して育て上げた愛馬が栄誉を得た記念に、その見事な馬体を描いた作品を、ぜひ厩舎のサロンに飾りたいのだが、描いてくれる画家が見つからずヴィトーにお鉢が回ってきたというわけだ。 「なるほど、取りあえず描くだけ描かせてみましょう。気に入らなければ、断っていただいて結構ですので」  この商人には、何頭か馬を買ってもらっていたので、伯爵も融通をきかせたかった。早速ヴィトーを呼び出して、絵の注文があったことを伝えると、顔をぱっと輝かせて即座に了承した。小屋の壁に何十回と描いては消した馬の絵を、ついに思い切り描ける日が来たのだ。 「もちろん、お前が木炭の絵しか描けないことは、了承済みだ。腕試しだと思って、気楽に描いてみればいい」  ヴィトーの胸は高鳴った。どのような構図にしようか、考えただけで興奮して眠れなくなる。そして数日後、牧場で実際にその見事な栗毛の馬を見て、ヴィトーの構想は決まった。やがて何枚もスケッチをくり返し完成した絵を見て「だめでもともと」と考えていた大人たちは度肝を抜かれることとなる。  横長の画面を切り裂くように駆ける、大胆な馬の姿は今にも飛び出さんばかりの迫力があり、黒と白だけで表現されたとは思えないような、華やかな躍動感を醸し出していた。 「いやあ、これは驚いた。実に、立派な絵です。正直、ここまでのものは期待しておりませんでした」  商人は絵を絶賛し、厩舎に飾って馬術仲間に自慢した。そしてそれを見た仲間うちからも、続々と馬の絵の注文が舞い込んだ。ヴィトーにとっては有難い話なのだが、そうなると問題になるのが労働時間と報酬である。現在ヴィトーは叔父の助手という形で外回りの雑用をしており、多数の注文に応じるには休みを取らねばならない。きっと叔父はそれを許すかわりに、報酬を全てよこせと言ってくるはずだ。  しかしその問題は伯爵の長男、セルジュによってあっさりと解決された。彼はヴィトーを母屋の使用人として雇い入れ、金銭管理を執事に一任してしまったのだ。 「母上から聞いたが、お前には寄生虫のような叔父がいるそうだな。しかし案ずるな、今日からお前は私の管理下になる。絵の注文に関しては私の命令であり、報酬も一旦こちらで預かる。金が入用な時は執事に申請しろ」  ペルコヴィッチ伯爵家の馬事業は、セルジュに運営が任されている。ヴィトーの絵は顧客に向けての良い宣伝になるため、この機会に伯爵家に取り込んでしまう方がいいと判断したのだ。これは、アデーレの懇願も大きかった。  同じ敷地内で働いているにせよ、セルジュ直属の使用人となったからには、叔父は手の出しようがない。さらには住居も使用人の共同部屋を使っていいことになり、ヴィトーは胸をなでおろした。母親が死んで以来、叔父は「世話をしてやっている」と恩を着せるが、実際は搾取され続けてきた。もう馬小屋になけなしの財産を隠す必要はなくなるのだ。ヴィトーはこの幸運に縋りついた。  こうしてヴィトーは、名実ともにペルコヴィッチ伯爵家お抱え画家となった。最初は馬の絵を専門に受注していたが、そのうち人物画を描いて欲しいという客も増えてきた。やがてヴィトーは稼いだ金で絵の具を買い求め、独学で油絵の練習を始めた。主に野菜や草花など素朴な静物がモティーフであったが、やはり彩色においてもヴィトーは並々ならぬ才能を発揮した。  そんなある日、ペルコヴィッチ伯爵の遠縁に当たるティトリー子爵が訪ねて来た。この人物は爵位こそ低いものの、国の美術界では評論家として名が知れており、ヴィトーの画才を見込んで画家への弟子入りを勧めてきたのである。 「ヘインの工房に口利きできますが、如何でしょう」  年のころは伯爵よりやや上だろうか。たっぷりとした白ひげを蓄えたティトリー子爵は、にっこりと人のよさそうな微笑を浮かべた。子爵は芸術の保護者として、国内の様々な工房に広く顔が効く。その子爵が紹介するヘインの工房は、ペルコヴィッチ伯爵家の肖像画や室内装飾なども、美術商を通じて手がけたことがある、領内では最も高名な工房であった。 「お話は有難いのですが、ヴィトーには我が家の顧客から注文が多数来ておりまして、ちょっと今はどうにもなりませんのです。それに、本人も今の仕事が気に入っているようでして」  ペルコヴィッチ伯爵はそう言って、やんわりと辞退した。ヴィトーはたまたま才能に恵まれていたのだろうが、あくまでも伯爵家の下男である。事業に貢献するのが彼の役目であり、それ以上のことは預かり知らぬことだと伯爵は考えた。 「そうですか、では仕方がありませんな。しかし、あの画才を埋もれさせておくのは惜しい。気が変わったら、ぜひいつでもお知らせください」  そう言って、ティトリー子爵は残念そうに帰って行った。しかしその数週間後、ペルコヴィッチ伯爵は意見を翻さざるを得ない事態に陥った。それは、執事が持ってきた一枚の絵が原因である。 「旦那さま、これを大工が見つけました。馬小屋の物置にあったそうです。お嬢さまの絵ではないかと思われますが……」  先日、この地域に雹が降り、屋敷のあちらこちらが破壊された。馬小屋も屋根の一部が割れてしまったので、大工が二階に上がって穴を塞ぐ修繕をした。その時、壁の板の隙間に押し込むように隠されていた絵を見つけてしまったらしい。  ただの落書きであれば、大工もそのまま捨て置いただろうが、描かれているのが伯爵の令嬢とあって、どうしたものかと執事に相談した。それが伯爵本人の手に渡ったというわけだ。  ペルコヴィッチ伯爵は、その絵を見て強い衝撃を受けた。まずは、その芸術性の高さにである。田舎貴族とはいえ、そこそこには教養があるし、様々な芸術を見て目が肥えている。その伯爵からしても、目の前の絵からは傑出した才気が感じられた。  もうひとつは、その絵の持つ強烈なエロティシズムにである。紛うことなくモデルは娘のアデーレであり、描いたのはヴィトーであろう。着衣で何の変哲もない構図ではあったが、成熟した男なら誰でも肌で感じ取れる、発情した雌の匂いが画面から濃厚に漂っている。  それは即ち、ヴィトーがアデーレに欲情しながらこの絵を描いたことにほかならず、父親としては腸が煮えくり返る思いであった。 「引き離すべきだろうな」  伯爵は、憎々しげに絵を睨めつけながら独りごちた。末娘のせいかいつまでも子どもだと思っていたが、アデーレも間もなく13歳になる。少し年上のヴィトーにとって、性の対象になるのは自分も経験上わかっていた。  伯爵は机に向かうと、ペンを手に取った。一旦は断ったティトリー子爵からの申し出であったが、改めてヴィトーをヘインの工房へ弟子入りさせる旨を手紙にしたため、封蝋を垂らす。  きっとアデーレは腹を立てるだろうが、これは彼女のためでもある。もう数年もすれば婚約を整える年代になってくる。下男に淫らな絵を描かせて変な噂にでもなれば、ペルコヴィッチ伯爵家の名に傷がつかないとも限らないのだ。  伯爵は蝋に印璽を押し付けると、ベルを鳴らして執事を呼んだ。こうしてアデーレとヴィトーのスケッチ遊びは、唐突に終わりを告げたのであった。
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