第四話/大事は小事より起こる

1/1
前へ
/60ページ
次へ

第四話/大事は小事より起こる

 ヴィトーをヘインの工房に弟子入りさせる話を聞いて、予想された通りアデーレは猛然と父親に抗議した。しかし、それは友人を失いたくないという自己中心的な感情論であり、筋道の通った伯爵の言い分にあっさりと一蹴された。 「冷静に考えてごらん、アデーレ。レヴェックでいちばん大きな工房で、絵の修行ができるのだ。それはヴィトーの将来にとって、最もよい道ではないかね。それともお前は彼の才能を、ここで埋もれさせるのが望みなのかい?」  アデーレは半べそでかぶりを振った。彼女にだって、理屈ではわかっているのだ。ヴィトーの画才は、専門家も認めるほどのもので、よい環境で修行をすればきっと素晴らしい絵が描けるようになるだろう。しかし、彼と離れるのは寂しかった。ただでも友人が少ないアデーレにとって、ヴィトーは心の中の大きな部分を占める存在であったのだ。 「それにお前だって、あと何年かすればセヴェリナのように、よその土地へ嫁いでしまう。ずっとこのまま、ここで彼と友だちでいることはできないのだよ」  アデーレはしょんぼりして自室へ戻り、ハンナに慰められながらわんわん泣いた。爵位のある家に生まれた限り、自由に生きられないのは理解している。それでも、現実的にその日が来るまでは、せめて淡い夢を見ていたいと願っていた。 「アデーレ様、ヴィトーにはきっとまた会えますよ。ハンナが何とかしますから、どうぞ涙を拭いてください」  アデーレより少し年上のハンナは、アデーレがヴィトーにほのかな恋心を抱いていることに気づいていた。多くの少女が経験する麻疹のようなものだろうし、せめて娘のうちは見守ってやりたいと思っていたが、恋の女神は彼らに微笑まなかったようだ。  しかし、これでよかったのかもしれない。ヴィトーにその気がないことを、ハンナは感じ取っていた。それでも男は女が誘えばかんたんに靡く。間違いが起こる前に離れて正直ほっとしたし、そのうちアデーレの熱も冷めるだろう。その時は、そう思っていた。  一方、工房入りの話を聞いたヴィトーは、身に余る光栄に震えが止まらなかった。セルジュの下で馬の絵を描かせてもらえるだけでも幸せだったのに、本職の画家として名門工房で働くことができるのだ。絵描きを志す者にとって、これ以上の栄誉はない。ヴィトーは伯爵に何度も礼を伝え、翌月の末にレヴェックに向かうことになった。  ヴィトーを工房へ出すことが決まった夜、珍しくバージットが母屋の居間で蒸留酒を片手に寛いでいた。いつもは晩餐が終わると、さっさと離れに引き上げるのだが、今日はどうやらここで伯爵がやって来るのを待っていたようだ。 「珍しいな、何か話でもあるのか」  伯爵も心得たもので、妻が母屋に長居するときは、何か自分に用事があるのだと理解している。従者を下がらせると自らの手で酒を注ぎ、バージットの正面にある安楽椅子に腰かけた。 「アデーレのお気に入りの下男を、レヴェックの工房へ出すそうね。セルジュが困っていたわ。あの子の絵、お得意さまのご機嫌取りに一役買っていたそうじゃない」  バージットは長椅子にしどけなく腰掛け、ルビー色の蒸留酒を目の前で灯りに透かしている。腹の探り合いをしているときは、いつもこうだ。この夫婦は何人もの子をもうけながら、本当の意味で打ち解け合うことがない。 「馬の絵はヘインの工房を通じて描かせればいい。あれだけ腕があるんだから、本職の下で鍛えてやった方が本人のためになるだろう」 「あら、やさしいのね」 「何が言いたい」 「何か裏があるのね? それはアデーレが悲しむことかしら」  バージットは夫にはもはや何の期待もしていなかったが、末娘のアデーレに関しては、過保護のきらいがあった。長男のセルジュは皮肉屋、次男のブランドンは実の子ではなく、長女のセヴェリナは嫁いでしまった。もう手元で可愛がれる子はアデーレしかおらず、彼女を傷つけるものは何としても排除するつもりであった。  妻の問いかけに、伯爵はおもむろに立ち上がって部屋を出ていき、やがて一枚の紙を持って帰って来た。 「これを見てみなさい」  それは、馬小屋の二階から発見されたアデーレの絵だった。男ほど敏感には察知できないが、女のバージットが見てもそれは、どこか艶めかしくエロティックな雰囲気を醸している。バージットは夫の言わんとするところを理解した。 「あいつはアデーレのことを、こういう目で見ているということだ。大事は小事から始まるというだろう。災厄の火種は、早めに消しておいた方がいいのだ」  伯爵はそう言いながら、手にした琥珀色の酒を一息に呷った。そして、言おうかどうか迷って閉じ込めていた妻への非難を、酒のせいにして吐き出してしまうことにした。 「それに、お前はさっきアデーレのお気に入りと言ったが、お前もそうではないのか? 以前、お前を描いた絵を見たが、あれもなかなか煽情的だったぞ」  バージットの目が、はっと見開かれた。ヴィトーを離れに招いて描かせた、あの一枚の事を言っているのだろう。 「大方お前のことだ、離れに引き込んで良からぬことでもしたんだろうが、これから嫁ぐ娘がいることを忘れんでくれよ。お前のやることには、できる限り目をつぶってはいるが、それでも――」  伯爵の言葉を遮るようにバージットが立ち上がり、ガウンの裾を翻してドアへと向かう。 「お小言ならけっこうよ、おやすみなさい」  背中でドアの閉まる音を聞き、伯爵は深いため息を漏らした。そしてもう一杯酒を自分で注いで、これもまた一気に飲み干した。  大人たちの思惑をよそに、一晩泣き明かしたアデーレは、翌朝から気持ちを切り替えて精力的に動き出した。へこたれない前向きな性格は彼女の美徳である。  アデーレは紙を小さく切ってそこへ文字をひとつずつ書き、束ねてひとつの冊子にした。昨夜はあんなに消沈していた彼女が、いったい何をしているのかとハンナが手元を覗き込む。 「これはね、文字の練習に使うのよ。ヴィトーは学校に行っていないから、ほとんど読み書きができないでしょう。でも、これから外の世界で独り立ちするんだもの、きっと必要になるわ。だから、あと少しの時間しかないけど、この家にいる間に覚えてもらおうと思って」  アデーレはヴィトーの新しい旅立ちを、応援する方向に気持ちを切り替えたようだ。確かに、これから一人で生きていく上で、読み書きと計算くらいはできた方がいい。早速その日から仕事の終わった後の時間を利用して、ヴィトーへの教育が始まった。  とは言っても、最近は父の監視が厳しくなったため、アデーレが直接ヴィトーに教えることは難しい。そこで、ハンナが代わりに教えることにした。場所は、いつぞやのリネン部屋である。アデーレにとっては恐ろしい思い出がある部屋だが、夜間は誰も使わないので勉強部屋にはうってつけだった。  やがて、あっという間にヴィトーが屋敷から出ていく朝がやってきた。見送りは、アデーレとハンナのみである。ヴィトーの目の縁に青い痣があるのは、叔父に殴られたからだ。数日前、レヴェックの工房へ入ることを伝えたら、恩知らずと罵られて暴力を振るわれたそうだ。最後まで、甥に対する情はなかったのだろう。 「体に気を付けて、がんばってね」  そう言って、アデーレは小さな包みを渡した。中には便箋と筆記具が入っている。ようやくヴィトーが文字を覚えたので、その練習としてアデーレに手紙を書く約束を交わしたのだ。郵便配達夫を使うとお金がかかるし、何より家族に見つかると開封されてしまう恐れがあったので、アデーレがレヴェックのフィニッシングスクールへ通う際、郵便馬車の詰め所で受け取ることにした。 「アデーレも元気でね。いろいろ、本当にありがとう」  ヴィトーは手を振り、屋敷から続く長い坂道を下って行った。ここからレヴェックまでは、馬車で一時間もかからない距離ではあるが、それはすなわち埋められない隔たりでもある。  アデーレは寂しさをこらえきれず、我慢していた涙をぽろぽろと零した。その小さな肩をハンナがそっと抱いて、小さくなっていくヴィトーの背中を、いつまでも二人で見送った。
/60ページ

最初のコメントを投稿しよう!

50人が本棚に入れています
本棚に追加