第五話/芸術とは名ばかりの

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第五話/芸術とは名ばかりの

「はっ、ミロスラヴだぁ? 絵筆もまともに持てないひよっこが、格好つけやがって!」  ヴィトーは腹を蹴られ、工房の床に転がった。弟子になって三日目で、ここが想像していた場所ではないことを悟ったが、弱音を吐いて逃げ出すわけにもいかず、ぐっと歯を食いしばって堪えた。 「俺はティトリー子爵からの紹介だから、お前みたいな無能を雇ってやったんだ。せいぜい邪魔にならないように、隅で石でも削ってろ」  入った初日に持参した画材を取り上げられ、二日目に返事が小さいと水を頭からかけられ、そして三日目に雅号がミロスラヴであることを知られて、ヘインからこっぴどく痛めつけられた。しかし、口答えするとさらに殴られそうなので、仕方なくヴィトーは言われるまま持ち場に戻り、絵の具の材料となる石を削った。この工房で最も底辺の仕事であるが、このまま筆を持たせてもらえず辞めていく者も多いという。  工房で働く弟子は約20名。絵画だけでなく彫刻や室内装飾など、富裕層の求める品を広く制作する総合的な芸術工房だ。親方のヘインは作品の構図は指示するものの、作業に関しては弟子が粗方作ったところで、最後に仕上げをするだけである。それがヘインの作品として出回っているのだから、内情を知れば騙されたと思う人もいるだろう。 「なあ、お前、帰る家があるんなら、こんな所はやめた方がいいぜ」  その夜、隣で寝ていた兄弟子が話しかけてきた。下位の弟子には寝台などなく、油や石膏で汚れた工房の床に麻袋を敷いて雑魚寝をする。食事も朝と晩、通いの婆さんが作る雑穀混じりの麦粥だけで、成長期のヴィトーには拷問のような日々であった。 「帰る場所はないよ。親は二人ともいない。それに、僕は絵を描きたくてここへ来たから、できる限りの辛抱はしようと思う」 「そうか、親がいないのは俺と同じだな。でも、どれだけ辛抱しようが絵は描かせてもらえないぜ。まとまった金でも詰まない限りはな」  兄弟子曰く、ヘインの工房での序列は、技術や経験ではなく「貢献度」に準じるという。ヘインには5人ほどの取り巻きがいるが、いずれも金持ちや権力者の子弟である。彼らは実家が何らかの援助をすることで、ヘインの寵を得ているらしい。 「特にお前、風当たりが強いだろう。才能のある弟子ほど、ヘイン親方は潰しにかかるんだ。自分にとって代わるような腕を持たれると困るからな。お前が子爵の紹介で入ったことも、親方はきっと気に食わないはずだよ」  ヴィトーは絶望的な気持ちになった。もしそれが本当であれば、自分はここにいる限り画家になる道は閉ざされている。それなら、ペルコヴィッチ伯爵家で馬の絵を描いている方がよほどよかった。  それでも、本物の画家になるには工房で修行をするしかない。なぜなら、この国では多くの場合、絵や彫刻などは富裕層が購入するものであり、それらは美術商を通じて工房に発注される。特に高額な注文は名のある工房が独占している状態なので、いくら絵が上手くても後ろ盾がない者は仕事にありつけないのである。  やがて、そんな生活が二カ月を過ぎるころ、ヴィトーにとって屈辱的な出来事が起こった。  ペルコヴィッチ伯爵家で描いていた馬の絵は、いまだに欲しがる人が多かったため、セルジュはヘインの工房を通じてヴィトーに発注を行った。それがヘインの逆鱗に触れてしまったのだ。 「俺の工房なんだから、俺の絵を売っているんだよ! なんでこんな駆け出しのひよっこに描かせなきゃならねえんだ」  そう怒鳴り散らすと、もうすぐ完成しようかというヴィトーの絵を、裏庭で燃やしてしまった。これには、ヘインの傲慢に慣れている工房の弟子たちも、驚いて眉をひそめていた。  しかしヘインの怒りは収まらず、暴挙はさらに続いた。なんと、ヴィトーの代わりに馬の絵を描き、自分の署名を入れて伯爵家に押し付けてしまったのだ。今後は自分に発注せよという意思表示である。  貴族を相手にこのような振る舞いは、下手をすれば処罰の対象になるほど礼を失したものである。しかし、伯爵家はヴィトーを斡旋したティトリー子爵の面子を慮り、大変遺憾である旨の抗議文とともに、作品を突き返すだけで事を収めようとした。  ところが、ヘインは反省するどころか、自分の描いた絵が受け入れられなかったことに激怒し、ヴィトーをイーゼルで打ち据えたのだ。これには取り巻き連中も流石にまずいと思ったようで、大勢で取り押さえてようやくヘインを引き離した。  額が割れ、唇が裂け、口の中に広がる鉄の味を感じながら、ヴィトーは本当にこのままで良いのか、何のための修行なのかと自問自答した。せめて技術が学べれば、辛い環境も我慢しようと思えるが、ここでは木炭さえ握らせてもらえないのだ。 (アデーレ……、僕はどうしたらいい?)  ずきずきと痛む頭に思い浮かぶのは、屈託のないアデーレの笑顔だった。ヴィトーにとってかけがえのない友人であり、絵画への道を拓いてくれた恩人である。それだけではない、アデーレは天涯孤独のヴィトーにとって唯一、陰日向なく接してくれた、心の拠り所でもあったのだ。ヴィトーはアデーレを描きたい欲求が、日増しに高まりつつあるのを感じていた。  一方アデーレは、いつになってもヴィトーからの手紙が届かないことに、不安を募らせていた。新米の弟子なので、自由が利かないのは理解している。しかし、いくら何でも二カ月以上である。フィニッシングスクールに行った帰りは、必ず郵便馬車の詰め所で問い合わせを行うが、決まって預かり物はないと言われてしまう。  本当は自ら工房に赴いて元気な様子を確認できればよいのだが、寄り道をすると帰りが遅くなり、父や兄に問いただされる恐れがある。週に二回もレヴェックへ行っているのに、すぐ近くにいるヴィトーに会えないのがアデーレにはもどかしかった。 「アデーレ様、私が今度ヴィトーの様子を見て参りましょう。来週が宿下がりの休暇なのですが、どうせ実家へは帰りませんので」  実家との折り合いが悪いハンナは、アデーレの侍女になって以来、宿下がり休暇を返上して普段通り働いている。今回は、いつも無駄にしている休暇を使って、アデーレのために動いてくれるという。申し訳ない反面、ようやくヴィトーの様子が知れるとあって、アデーレの心は弾んだ。しかし、ハンナが持ち帰ったヴィトーの近況は、想像を絶する悲惨なものであった。 「かなり夜遅くまで働かされているようでした。ようやく少しだけ話ができたのですが、すごく痩せていました。屋台で食べ物を買って渡したら、飢えた犬のように食べていましたので、良い待遇とは言えないようですね」 「なんてこと! 領都でいちばんの工房だと聞いていたのに。お給金で買い物はできないのかしら」 「それが、弟子は無給で働かされるようです。お金を渡そうかとも思いましたが、取り上げられてしまうそうで、断られました」  アデーレは目の前が真っ暗になった。彼の将来のため、良かれと思って送り出した結果がこれだ。しかもハンナから聞いた話によれば、一切絵は描かせてもらっていないらしく、朝から晩まで石を削ったり板にやすりをかける作業をしているという。そう言えば、セルジュが「ヘインから紛い物の絵が送られてきた」と憤慨していた。もしや、ヴィトーが絵を描かせてもらえないことと関係があるのではないだろうか。 「どうしましょう、ハンナ。修行は厳しい道だと聞いているけれど、ヴィトーの生活は普通じゃないように思うの」 「そうですね、私も実家にいたころ、いろんな工房の弟子たちを見て育ちましたが、食事も満足に与えない、給金も出さない、なんて親方はいませんでした。それに……」  ハンナはそこで口ごもった。何か言いにくいことがあるらしい。アデーレは構わず先を促した。 「なに? 言ってちょうだい」 「あの……、どうもヴィトーは怪我をしているようでした。シャツの襟もとから痣が見えましたし、額にも切り傷の痕がありました」 「なんてこと!」  アデーレは驚愕に慌てふためき、何とかしてヴィトーを救い出さねばと考えた。しかし、自分は子どもで資金も人脈もない。そこで、信頼のおける人物に相談することにした。  間もなく次兄のブランドンが帰省する。アデーレは長兄のセルジュは人を見下す態度が苦手だったが、陽気で公平なブランドンには懐いていた。頭の切れもセルジュより格段に良いブランドンのことだ。きっとヴィトーを助けるための知恵を授けてくれるだろう。
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