第一話/馬小屋の天使たち

1/1
46人が本棚に入れています
本棚に追加
/60ページ

第一話/馬小屋の天使たち

――ある堕落した修道女の回顧――  間もなく年が明けようかという寒い朝、一人の女がラスール国郊外の留置所に収監された。名前はアデーレ。年の頃は二十代半ばと思われる。  この収監者について、牢番たちは頭を悩ませていた。言葉の訛や立ち振る舞いから、隣国の身分の高い女性だと思われるのだが、本人は「ただの洗濯女だ」と言い張る。後で面倒なことにならないよう、家族や知り合いの所在を聞いても、黙ったままなので埒があかないのだ。  実はこのアデーレは、血まみれの死んだ男の上に馬乗りの状態で発見された。しかも、素っ裸に修道女のウィンプル(頭巾)のみという格好で、傍らにはその姿を描いたと思われる絵が置かれていた。 「女の喚き声がする」と通報を受けて部屋に踏み込んだ巡査は、その光景を見て彼女が男を刺したのかと思ったが、調べるうちに血は男が喀血したものだとわかった。そしてその男こそ、隣国から手配書が出ていた脱走兵ヴィトー、通称ミロスラヴという画家であった。    牢番たちがアデーレの扱いに困っているころ、当の本人は冷たい石造りの牢の中で、ぼんやりと現実を脳に染み込ませつつあった。ヴィトーがもうこの世にいない。それは即ち、彼女の世界の終わりを意味するものである。  出会って、約20年。彼を愛し、最大の理解者であろうと努力した。それが思わぬ方向に暴走した結果、こうして囚われの身になっているのだが、後悔はしていない。また生まれてきても、きっと彼を愛するだろうとアデーレは確信していた。  牢には、小さな明かり取りの窓がひとつ。そこから見える空を眺め、さてどうしたものかとアデーレは考えた。身の上を知られるのも時間の問題だ。脱走兵の逃亡幇助、密入国に身分詐称、一応まだ修道女なので姦通の罪もある。どちらにしても処刑されるだろうが、彼の元へ逝けるのなら死ぬのはちっとも怖くない。  アデーレは粗末なベッドの上でそっと目を閉じ、ヴィトーと過ごした日々を思浮かべた。最初に彼を見たのは、実家の馬小屋。彼が12歳、アデーレが9歳の夏だった。 ――リマソール王国歴729年――  アデーレはリマソール王国東部、クレドラ山脈の麓に生まれた。父はこの領地を治めるペルコヴィッチ伯爵である。主な産業は、ここ10年ほどで大幅に産出量が落ち込んだ炭鉱、あとは山間の平地にわずかな畑があるくらいだ。雄大な自然に囲まれて、と言えば聞こえはいいだろうが、いわゆる田舎の貧乏貴族である。支配階級とはいえ、決して裕福ではない暮らし向きであったが、年の離れた姉と二人の兄を持つアデーレは、末娘として可愛がられ、奔放に成長していった。  ある夏の日、アデーレは馬小屋の裏で一人の少年に出会った。年のころはアデーレより少し上だろうか。濃い栗色の巻き毛に、まるで刷毛で掃いたような白い毛がひと束、前髪に紛れているのが目を引いた。ぼろぼろの作業着を着ているが、不思議と不潔な感じはしない。  少年はアデーレが近くへ来たのに気付かず、一心不乱に壁に何かを描いている。アデーレは生来の好奇心から、その少年に声をかけずにはいられなかった。 「ねえ、その髪は生まれつきなの?」  アデーレに話しかけられた少年は、はっと目を見開いた。周辺が少し灰色を帯びた薄青色の瞳で、やや垂れ下がった右の目尻には、二つの小さなほくろが並んでいる。際立って美男子というわけではないが、不思議に人を惹き付ける、印象的な風貌であった。 「そうだよ、馬みたいって言われるんだ」 「馬?」 「馬糞拾いをしてるからそんな髪になる、って叔父さんが言うんだ。でも生まれつきだし、炭鉱夫だった父さんも同じ髪だったよ」  少年は少しはにかんだ表情で肩をすくめた。笑うとふっくらとした唇から白い歯がこぼれて、表情に独特の甘やかさが加わる。アデーレは彼のことがすっかり気に入ってしまった。 「あら、私はその髪、好きよ」  茶色の髪に茶色の目、やや背が高くすらりとしているものの、平凡を絵に描いたような容姿のアデーレにとって、一種独特な彼はひどく魅力的に見えた。 「ねえ、何を描いてるの?」  好奇心で目をきらきらさせて、アデーレは少年の手元を覗き込んだ。すると、板塀に描かれた馬の絵が目に飛び込んで来た。まるで生きているような躍動感に、アデーレは思わず驚きの声をあげる。 「すごい! これ、あなたが描いたの?」  少し照れくさそうに、少年は頷いた。手には焚き木の燃え残りが握られている。炭化した先端を使って、器用に濃淡を表現したようだ。大人でもこれほど上手な絵を描く人を、アデーレは見たことがなかった。 「なんて上手なの、あなた絵描きになればいいのに。ねえ、こんど私の絵を描いてよ」 「無理だよ、道具を持ってない。ここの絵も、描き終わったら消してしまうんだ。そうしないと叔父さんに怒られるから」  そう言って残念そうな顔をする少年の背後から、野太い声が聞こえてきた。 「お前、またこんな所で油を売ってたのか。さっさと水場の掃除をしやがれ!」 「叔父さん、ごめんなさい」  少年は持っていた焚き木を放り出して、男の方に走って行った。その男をアデーレは何度か見かけたことがある。馬や畑の世話をしている下男だ。もっと金持ちの貴族なら持ち場ごとに役割分担があるのだろうが、残念ながらペルコヴィッチ伯爵家では一人で何役もこなすのが常である。  その男は、さっき少年が言っていた叔父に違いない。男はアデーレの姿を認めると、被り物を取ってぺこりと頭を下げた。 「お嬢さん、こりゃどうも」 「ごめんなさいね、私が邪魔していたの。叱らないであげて」 「もったいねぇお言葉です。こいつは俺の甥っ子なんですが、親が死んじまったもんで引き取って、先月からこちらで下働きをさせてもらってます。ほら、お前もきちっとお嬢さんに挨拶しな」  男はそう言って少年の巻き毛をひっつかむと、押さえつけて頭を下げさせた。同じ外働きでも、武骨な叔父と比べて少年は線が細く、まるで半透明の妖精のように見えた。アデーレはますますその少年に興味がわき、どうにか友だちになれないだろうかと考えた。 「あなた、名前は?」 「ヴィトー、……です」 「私はアデーレよ。また会えるといいわね、ヴィトー」  雇い主の娘とわかったせいか、急によそよそしくなったのが気に入らなかったが、あまり引き留めると後でヴィトーが叔父から叱られると思い、アデーレは手を振ってその場を後にした。  二人が再び会ったのはその翌週。ヴィトーはまたあの馬小屋の壁に絵を描いていた。今度は木の絵だ。これも素晴らしい出来だった。 「また絵を描いてるのね」 「ああ、えっと……、アデーレお嬢さま」  今回もやはり、声をかけられるまで気配に気がつかなかった。よほど熱中して描いているのだろう。炭で真っ黒になった手をズボンでぬぐうと、ヴィトーは頭を下げようとした。 「やだやだ、そんなに畏まらないで。今日は私、あなたと友だちになりたくて来たのよ」 「友だち?」 「そうよ。叔父さんや大人の前では仕方ないけど、誰もいないときはこの前みたいに普通に話してちょうだい。もしあなたが、私のこと嫌いじゃなければだけど」 「嫌いだなんて、そんな」 「よかった、じゃあこれ。お近づきのプレゼントよ」  アデーレが差し出したものを見て、ヴィトーは「よくわからない」という顔をした。無理もない。下働きの少年にとっては初めて目にする画材である。軸のついた黒鉛芯やチョーク、素描用の細い木炭が小さな箱に入っており、不揃いな粗い紙を麻縄で閉じたスケッチブックが添えられていた。こちらはアデーレの手作りらしい。 「この紙に、この道具で描くの。あなたなら、きっとすぐに使いこなすわ。誕生日にもらったんだけど、上手に描けなくて。ずっと引き出しにしまい込んだままだったの」  しかし、ヴィトーはふるふるとかぶりを振った。 「もらえないよ。高いんでしょう、これ」 「気にしないで。使わない方がもったいないわ。これで私の絵を描いて欲しいの。これならもう、消さなくていいでしょう?」  ヴィトーは恐る恐る画材を手に取った。その瞬間、きらきらと目が輝く。これを使ったらどんな絵が描けるのだろうと、興味と期待で胸がいっぱいになっている。アデーレもそんな彼を見て、満足そうに笑顔がこぼれた。 「ほんとに、いいの?」 「もちろんよ。そのかわり、私の絵を描いてね。約束よ、もう私たちは友だちなんだから」 「うん、ありがとう、アデーレ」  小さな画家とパトロネスの物語は、こうして始まった。二人は早速画材をあれこれ試し、叔父に見つからないように馬小屋の二階の物置にそれらを隠した。馬が告げ口でもしない限りは、彼らの秘密は誰にも知られることはないだろう。
/60ページ

最初のコメントを投稿しよう!