第二話/小さな秘密と大きな嘘

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第二話/小さな秘密と大きな嘘

 それからアデーレとヴィトーは、大人たちの目を掻い潜って絵を描く遊びに興じた。ヴィトーは仕事があるので、ほんの短い時間しか自由にはならないが、画材の使い方がわかるにつれ、どんどんスケッチに夢中になっていった。  にわかモデルのアデーレも、この秘密の遊びを大いに楽しんだ。ヴィトーは絵を描くとき、まるで神々しいものを崇めるような、熱い眼差しでアデーレを見つめる。それは彼女がかつて経験したことのない感覚で、自分が特別な人間になれたような気がして誇らしかった。  やがてヴィトーは慣れない道具を操りながら、アデーレの肖像画を描きあげた。ちょうどアデーレが10歳を迎えた頃だったので、それは素晴らしい記念の贈り物となった。 「これが私? なんて素晴らしいの。大切にするわ、ありがとう、ヴィトー」 「気に入ってくれて嬉しいよ。また描かせてくれる?」 「もちろんよ!」  粗い紙に素描という簡素な作品ではあったものの、アデーレの若々しい生命力が迸り、溌剌とした魅力に溢れている。ふだん平凡な容姿を嘆いているアデーレであったが、ヴィトーの目には自分がこのように映っているのかと思うと、満更でもないような気持ちになってくる。その自信がさらに彼女を輝かせた。  しかし何より注目すべきは、ヴィトーの並外れた画力である。そのとき彼は12歳だったが、およそ同年代の子どもが逆立ちしても真似できないような、非凡な才が画面から滲み出ているのは、素人目にも一目瞭然であった。  その後もヴィトーとアデーレは、大人たちに見つからないよう隠れてスケッチごっこを続けたが、そんな彼らの様子を物陰から見ている人物がいた。この屋敷の女主人、ペルコヴィッチ伯爵夫人である。  伯爵夫人、バージット・ペルコヴィッチの実家は、伝統的に馬の産出で知られている。そのため、彼女も幼少期から乗馬を趣味としているのだが、ある日たまたま遠乗りに出かけようとして、馬小屋の近くで末娘のアデーレとヴィトーの姿を見かけた。  そのような場合、階級意識の強い貴族女性であれば「使用人と遊ぶのはやめろ」と娘を叱るだろうし、大らかな子育てをしている母親であれば「同年代の友だちができてよかった」と喜ぶだろう。しかしバージットはどちらでもなかった。娘よりもその相手、ヴィトーに興味を持ってしまったのだ。  それから数カ月が経ち、ヴィトーが13歳になった冬のある日、馬小屋で飼葉の世話をしていたところ、乗馬服姿の伯爵夫人に声をかけられた。使用した馬具の手入れをしておけという言いつけだったが、裏方まで夫人が入ってくることは滅多にないので、ヴィトーは不思議に思った。いつもは叔父たち大人が、厩舎の通用門で御用をお伺いするのだ。  それでもご主人の言いつけなので、承知の旨を伝えて馬具を受け取ろうとしたその時、ヴィトーはぐいっと腕をつかまれ伯爵夫人の方へ引き寄せられた。耳に唇が触れる寸前の距離で、囁き声が響く。 「手入れが終わったら、お前が自分で離れに持って来なさい。テラスの窓を開けておくわ。決してこのことを誰にも言ってはいけない。わかったわね」  そう言うと彼女は踵を返し、屋敷の方へと去って行った。汗と香水の混じった淫靡な匂いと、ねっとり艶を含んだ声に、ぞくりと背筋を悪寒が駆け上がったが、下働きの小僧に選択肢はない。仕方なく馬具を磨き上げると、言われた通りに離れのテラスへと参上した。 「奥様、馬具を持ってまいりました」  バージットの起居する離れは、ペルコヴィッチ伯爵邸の母屋から少し離れた庭園の外れにある。もとは客用コテージだった建物を、改造して奥方専用の私室にした。本来なら夫婦である以上、伯爵と部屋を共にするものなのだろうが、アデーレが生まれた後あたりから、気鬱や不眠を言い訳にして、夫と閨を分けてしまった。  ただし本当の理由は、伯爵の派手な女遊びと癇癪に嫌気が差したからであり、そのことは屋敷の使用人たちの間では公然の秘密となっている。ヴィトーも叔父から聞いて知っていた。同時に、バージットが男をその離れに連れ込む噂も囁かれていたので、贄として差し出される子羊のような気持ちで、ヴィトーは指定されたテラスの窓をノックした。 「お入りなさい」  ヴィトーの呼びかけに応えて、部屋の中から声がした。先ほど耳元で聞いた伯爵夫人の声だ。緊張で手に汗が滲むのを感じながら、ヴィトーは掃き出し窓を開けて室内へ入った。 「馬具はそこらに置いといてちょうだい」  バージットはカウチに座って葡萄酒を飲んでいた。部屋は広くはなかったが、母屋から移した上等な家具で整えられ、柔らかな絨毯が敷かれている。ヴィトーは自分の泥靴が部屋を汚さないかと心配になった。  それにしても、なぜこの部屋には侍女や女中がいないのだろう。いくら伯爵家が人手不足といっても、女主人の私室に人を招き入れるのであれば、使用人が控えていなければ体裁が悪いはずである。  しかも入浴した後なのか、ネグリジェにガウンというしどけない格好である。それ以前に、そもそも馬具は厩舎で保管するものなので、居室に届けさせるのは不自然だ。もしやヴィトーを呼びつけるための口実なのではないか。  そんな考えが頭を過り、ヴィトーはもしもこの場を誰かに見られると、誤解されて面倒くさいことになりそうだと警戒した。そのためすぐさま辞去を告げようとしたのだが、それよりもバージットの言葉が機先を制した。 「お前、娘と仲がいいようね」  一瞬考えて、いつも一緒にスケッチをしているアデーレのことだと気づいた。「身分をわきまえろ」と叱責されるに違いない。そう思って身を固くしたヴィトーに、バージットはにやりと口の端を上げた。 「そう怯えなくていいわ、別にお前を叱るつもりはないの。私にも一枚、描いてもらおうと思ったのよ」 「えっ」 「いいでしょう? 上手に描けたら小遣いをあげるわ」  断れるわけがない。ヴィトーがおずおずと了承の意を伝えると、バージットは立ち上がり、するりとガウンを肩から落とした。そしてネグリジェの胸元の紐を解き、それもさっさと脱ぎ捨ててしまった。 「せっかく描いてもらうのだもの」  そう言いつつバージットは、一糸まとわぬ姿でヴィトーの前に立った。すでに四十路を迎え花の盛りは過ぎていたが、磨き上げられた肌は思春期のヴィトーにとって、十分に刺激的だった。思わず顔を赤くして俯いてしまったヴィトーを見て、彼女は愉快そうにくすくすと笑った。 「おやまあ、女の裸を見るのは初めて?」  その時ようやく、ヴィトーは自分がからかわれているのだと理解した。この伯爵夫人は若いころ美人の誉れが高かったが、嫁いだ夫は彼女を蔑ろにして次々と愛人を作った。それが原因でアデーレが生まれた後は家庭内別居になっているが、どうにも承認欲求が満たされない。  そこで、夫への当てつけも兼ねて、時たま離れに若い男を連れ込んでは、堕落的な火遊びを楽しんでいる。もちろん既婚の女性としては道義に反することだ。しかし田舎の貴族など、くだらない噂話か賭博、せいぜい房事くらいしか楽しみがない。みんなやっていることだし、夫も妻の生活には興味を持たなかった。  ヴィトーに関しては、さすがに子どもに手を出すつもりはなかったが、先日アデーレと一緒にいたとき垣間見た表情に、妙な色香を感じたことは否めない。それで、ちょっと悪戯をしてみたくなったのだ。 「い、今は絵の道具を持ってなくて、あの……」  ヴィトーが俯いたまま、しどろもどろに断りを述べている。バージットはそろそろ少年を解放してやることにした。 「わかったわ、でも絵を描いて欲しいと言ったのは本当よ。明後日の今ごろ、道具を持ってまたここへいらっしゃい。いいこと? 誰にも言わずに来るのよ」  言い捨てると、バージットはガウンを羽織った。ヴィトーは滝のような汗が背中を伝うのを感じながら、転がるようにテラスから走って退散した。  誰にも言ってはいけないと言われた。もちろんヴィトーも誰かに言うつもりはない。伯爵夫人の秘密をもらしたりすれば、下働きの小僧など瞬時に始末されてしまうだろう。それほど田舎の町で領主の力は強大なのである。  しかし賢明な甥っ子に反して、養育者である叔父はそこまで知恵が回らなかったらしい。ヴィトーが奥様の御用を仰せつかったことを訝しく思い、こっそり尾行して先ほどの光景を開け放したテラス窓の外から見てしまった。  男遊びが激しいとは聞いていたが、まさか年端もいかない下男まで連れ込むとは。叔父は下卑た笑いを浮かべ、何やらろくでもない企みを思いめぐらせた。それが彼を絶望的な窮地へ追いやるとは思いもせずに。
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