第三話/伯爵夫人の鉄槌

1/1
前へ
/60ページ
次へ

第三話/伯爵夫人の鉄槌

 ヴィトーの叔父、テッサロは母親の兄である。ヴィトーが生まれたころは、まだこの地域の炭鉱も今よりいくらか活気があった。そこで父親は鉱夫として働いていたが、無理な採掘が原因で落盤事故が起こり命を落とした。ヴィトーが2歳の時である。  その後、遺された母親は兄であるテッサロの家に間借りし、細々とした内職をしながら生活していたが、まだ小さな子どもがいるため稼ぎがままならない。お決まりのように娼婦の真似事を始め、無理が祟って24歳の若さで亡くなった。  以来、テッサロが親代わりとしてヴィトーの面倒をみている。しかし、彼にも妻と二人の子がおり、生活には余裕がない。この国には平民でも学べる学校があるが、ヴィトーは多くの遺児がそうであるように、学ぶより目先のパンのために働かざるを得なかった。  そんな状況なので、テッサロがヴィトーを使って小銭を稼ごうと考えるのも無理はない。甥といっても、仕方なく養っているだけで、自分の子どもとはわけが違う。扱いに差をつけるのは当たり前で、ヴィトーは世話になっているぶん役に立つべきだ。それが彼の考えであった。  そんな叔父の魂胆は露ほども知らず、ヴィトーは約束通りに馬具を届けた明後日、伯爵夫人の絵を完成させた。今度はちゃんと侍女が背後に控え、バージットもドレスを身に着けていた。  天鵞絨貼りの椅子に腰掛け、優雅に微笑んでポーズを取るバージットは、先日の淫らな気配を完全に封じ込め、実に堂々とした貴婦人ぶりであった。内心では「後でちょっと意地悪をしてやろうか」と考えていたが、仕上がった絵を見てそんなことは頭から飛び去ってしまった。 「……上手に描けたわね。約束通り、褒美をあげるわ」  無表情のまま、バージットはヴィトーに銀貨を握らせた。貧しい家ならひと月ほどの食料が買える。ヴィトーにとっては初めて見る大金であった。 「もういいわ、お下がり」  そう言われてヴィトーは頭を下げ、夫人の離れを後にした。絵を見た表情が固かったので、もしかすると気に入らなかったかもしれないが、それよりもお役御免の安堵の方がはるかに大きかった。  ヴィトーが辞去した後、バージットは改めて出来上がった絵を眺めた。そして、侍女にリキュールを持って来させると一息に呷った。どうせ子どもの落書きだろうと思っていたが、とんでもない。優雅な微笑の奥底に欲望を秘めた彼女のありのままが、まるで生きているかの如く描き出されている。バージットはもう一度侍女を呼んだ。 「職人をここへ来させて。この絵に額装を施したいの」  こうしてヴィトーが描いた小さな肖像画は、朴木の額縁に収められ伯爵夫人の寝室を飾ることになった。テッサロが遠乗りから帰って来たバージットに声をかけたのは、それから数日後のことである。 「無礼を承知で、奥様に申し上げたいことがございます」  バージットは低頭するテッサロを無表情で見下した。いくら田舎貴族といっても、身分の低い下男風情が伯爵夫人に話しかけるなど、通常ならありえないことだ。不快感を隠そうともせずに、バージットは吐き捨てた。 「何の用なの」 「へい、甥っ子のヴィトーのことで。先日、奥様の絵を描いてご褒美をいただいたそうですが」  バージットの柳のような片眉がすっと上がった。この後、この男が何を言おうとしているかは、大体の予想ができる。 「実は、ヴィトーが馬具をお届けした時、心配だったんでこっそり付いて行ったんです。何しろ奴は半人前でございましょう? 失礼があっちゃいけないし、今まで離れに呼ばれることなんてなかったもんで」  そこで思いもかけず、伯爵夫人がヴィトーに性的な悪戯をしている現場を見てしまった。思春期の少年の情緒に悪影響があるのではと、叔父として心を痛めている――。そのような白々しい口上を、いかにも愛情深い養育者の顔をして、テッサロはまくし立てた。 「あの子は死んだ妹のたった一人の倅ですから、あたしも責任もって立派に育てたいと思ってるんですよ」  ヴィトーが稼いだ褒美を、脅すようにして巻き上げた男が、責任も何もあったものではない。しかし、それは養育者の権利だと悪びれない類の人間である。世間の倫理観など通用するはずもない。 「それで?」  バージットが全く動じていない様子を見て、テッサロはようやく少し焦り始めた。ここまで言えば、世間体を気にして口を塞ぐために、幾許かの金を払うと思っていたのだ。そこで、さらに伯爵夫人にあるまじき振る舞いについて、語気を強めて状況の危うさを説こうと試みた。  あの件が世間に知れたり、伯爵の耳に入るのはまずいだろう。もちろん自分が言いふらすことなど絶対にないが、どこから漏れるかわかったものではない。しっかりと周囲に口止めをしておくべきであるし、そのためには多少の金が必要になる。 「なぁに、奥様の手を煩わせることはございません。あたしが代わりに――」  しかし、その言葉はバージットに遮られた。何の感情も含まない、氷のような声だ。 「大層な御託を並べているが、要するにお前は、金をせびりに来たんだろう?」  図星をつかれて、テッサロが二の句を飲み込む。どう答えたものか迷っているうち、先にバージットがさっさと話を纏めてしまった。 「まあいいさ。明日の夜、果樹園の井戸に来るといい。あの子も一緒に連れておいで」  それだけ言うと、バージットはさっさと立ち去った。最後まで顔色一つ変えなかったことに一抹の不安がよぎったものの、金がもらえると思ったテッサロは、こみ上げる笑みを隠そうともせず、あれこれとあぶく銭の使い道を思いめぐらせた。  翌日陽が落ちるとともに、テッサロはヴィトーを連れて果樹園の井戸前で伯爵夫人の使者を待った。下男が来るか、女中が来るか。今か今かと待ち続け、ようやくとっぷりと夜が更けた頃、暗闇の中から三人の男が現れた。  てっきり屋敷の下働きが来ると思っていたテッサロは、月あかりに浮かび上がった男たちの姿を見て警戒心を強めた。およそ貴族の屋敷に相応しくない、下町の破落戸のような風体である。 「お前がテッサロか?」 「そうだが、お前たちは」  答えた瞬間、三人のうち二人が背後からテッサロを拘束した。咄嗟にテッサロが暴れて振りほどこうとするが、相手は手練れらしく全く動きが取れない。やがてテッサロの正面にいる男が、傍らで怯えているヴィトーに命令をした。 「おい、小僧。こいつの靴を脱がせろ」  ヴィトーは意味がわからず茫然としていたが「早くしろ」と凄まれて、あたふたと叔父のボロ靴を脱がせた。男がその裸足の足元にしゃがんで小指をつまむ。 「お前、伯爵夫人を強請ったらしいじゃねぇか。阿呆だな、そんなに容易く金がもらえるとでも思ったか?」  男は鋭いナイフを振り下ろし、テッサロの小指を切り落とした。野太い悲鳴が響いたが、屋敷から離れた果樹園なので気づく者はいない。 「お貴族様を怒らせると恐ろしいってこった。お前もいい勉強になっただろう。まあ指はあと9本残っているし、気の済むまでやってみるといい。指が全部なくなりゃあ、そん時は股の間の粗末な物がこうなるがな」  男はそう言いながら、ナイフの先をテッサロの股間に押し付けた。小さな悲鳴が上がり、あたりに尿の匂いが漂う。テッサロが失禁したのだ。ヴィトーはその光景を見て草の上に嘔吐した。同時に、なぜ自分がここへ連れてこられたかを理解した。伯爵夫人はヴィトーに私刑の現場を見せることで、秘密を守らなかったらどうなるか脅しをかけたのだ。  男たちが去った後、ヴィトーはテッサロに肩を貸して這う這うの体で家へたどり着いた。二人とも恐怖で口がきけなかったし、テッサロにおいては痛みで意識が朦朧としていた。二人を出迎えたテッサロの妻は驚いて医者を呼びに行こうとしたが、夫から事の顛末を聞かされ、秘密裏に処理すべきと判断した。それ以来この件は「何も見ていないし何も起こっていない」こととして封印されている。  しかし、多感な年頃のヴィトーにとって精神的な衝撃は大きかった。ふとした時に叔父の血まみれの足や、男のナイフが闇に光る様子を思い出し、恐怖で身が竦んでしまう。特に伯爵夫人の姿を見かけたときは、冷汗が全身から噴き出すほどだ。  その日も、馬小屋の片隅でヴィトーは膝を抱えて泣いていた。つい今しがた、厩舎の近くで伯爵夫人に遭遇し、狼狽えているうち「あら、久しぶりね」と声をかけられてしまった。慌てて頭を下げて逃げ出してきたが、何事もなかったかのような笑顔が恐ろしく、誰もいない所へ逃げ込んだのだ。  ところがそういう時に限って、会いたくない人物に会ってしまう。ヴィトーは小屋の戸口から小さな人影が近づいてくるのを察知し、慌てて顔を俯かせた。 「どうしたの、ヴィトー。もしかして、あなた泣いてたの?」  目をまん丸くしたアデーレが、駆け寄ってきた。いつものように他愛のないおしゃべりやスケッチ遊びができればいいのだが、とてもそんな気分ではない。叔父が彼女の母親を強請り、罰として足の指を切られたなど、澄んだ瞳で心配そうにこちらを覗き込んでいる少女に言えるはずもなかった。  ヴィトーが黙っていると、アデーレはそっと手を伸ばし、白い筋がひと束混じった巻き毛をやさしく撫ではじめた。子ども特有の高い体温の手のひらが、なぜだかひどく安心できて、ヴィトーは膝に額を押し付けたまま泣き続けた。 「悲しいことがあったのね。でもヴィトー、私はいつもあなたの味方よ。あなたを悲しませる人がいるのなら、私が守ってあげるわ」  アデーレは自分より少し年かさのヴィトーに、不思議な庇護欲を掻き立てられた。きっとこの少年は、繊細で傷つきやすい。自分が守ってやらなくてはいけない気がした。そしてヴィトーはアデーレに撫でられながら、最近ではもう顔も朧気になった、懐かしい母親の匂いを思い出していた。 ※新作記念連続更新:7月24日17時台に第四話をアップします!
/60ページ

最初のコメントを投稿しよう!

45人が本棚に入れています
本棚に追加