第四話/私のようにはならないで

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第四話/私のようにはならないで

 季節が廻り、アデーレが11歳になった夏、隣の領に嫁いでいる姉が赤ん坊を連れて里帰りした。姉のセヴェリナはアデーレよりも12歳年上で、その2歳下に長兄のセルジュ、6歳下に次兄ブランドン、末っ子のアデーレと続く。  ただし、次兄のブランドンだけは母親が違う。屋敷で働いていた女中が伯爵の手つきとなり、生まれた子が男児だったため、幼児期に養子としてペルコヴィッチ伯爵家に迎え入れられた。貴族の家にはこうした庶子の縁組が少なくない。 「まあまあ、私の可愛いアデーレ! あのおちびちゃんが、こんな素敵なレディになっちゃったのね」  セヴェリナは年の離れた妹を可愛がっていたが、4年前に結婚してからは出産や育児で帰省もままならず、久方ぶりの顔合わせである。セヴェリナはアデーレの顔を見ると、その成長ぶりに目を輝かせた。 「お姉さまは、相変わらずおきれいだわ。でも、少しお痩せになりました?」  セヴェリナは母親であるバージットの美貌を受け継いでいる。娘時代は彼女を崇拝する男も大勢いたが、それでも数多ある縁談の中から幼なじみに嫁いだ。親同士の交誼が深かったこともあるが、二人が相思相愛だったことは周知であった。  夫は隣領の伯爵家嫡男で家柄や年頃も申し分なく、なんと祝福された結婚かと幼いアデーレはうっとりしたものだが、久しぶりに会った姉は痩せて顔色も悪い。子連れの長旅で疲れたのだろうと思い、アデーレはゆっくり休んでもらえるよう、その日は早々に退散した。  しかしその数日後、偶然にアデーレは庭の四阿で、姉が泣いているのを目にしてしまった。テーブルを挟んだ正面には母のバージットがおり、何やらセヴェリナを叱責しているようである。  子ども心にそれが「見てはいけないもの」であると感じたため、アデーレはすぐにその場を立ち去ったが、一瞬だけ母と目が合ったような気がしてならない。どうか気のせいでありますようにと願ったが、やはり母は鋭かったようで、翌日の朝食後に離れに呼ばれてしまった。 「アデーレ、悪い子ね。人の話を立ち聞きするなんて、淑女のふるまいではないわよ」 「お母さま、私は偶然にあそこを通りがかっただけです。何も聞いてはおりません」 「でも、見たんでしょう?」  口調はやわらかいが、強い圧がある。言い逃れはできないと判断したアデーレは、素直に自分が見たものを白状した。 「お姉さまが、泣いておられました」  バージットは「やっぱりね」という顔をして、アデーレを自分の傍らへ座るよう手招きをした。アデーレは椅子から立ち上がり、長椅子にぴったり母親と寄り添って座る。子らに何かを言い聞かせるとき、いつもバージットはこうするのだ。 「隠していても、そのうち知るだろうから、教えておくわ。セヴェリナの旦那さまにはお妾さんがいてね、その方がもうすぐ子どもを生むそうなの」  アデーレは驚きを隠せなかった。姉は貴族としては珍しく恋愛結婚をし、義兄とも仲睦まじい夫婦だと思っていた。それなのになぜ、余所の女性に子ができるのか。アデーレにはまだそのあたりの機微が理解できなかった。 「お聞きなさい、アデーレ。妻や家族を大切にしていても、男の人にはそういうことがあるの。うちだって、ブランドンは余所で生まれた子でしょう」  そう言われて、かつて母も姉と同じ立場だったのだとアデーレは気づいた。思春期独特の潔癖さで、セヴェリナに起こった現実を受け入れられずにいたが、自分とブランドンは普通の兄妹として暮らしてきたし、母も分け隔てなく接していた。 「あなたもそのうちどこかへ嫁いで、妻や母になるわ。その時もしも、旦那さまが他の女性に心を移したとしても、決して取り乱してはなりませんよ。正妻なのですから堂々としていなさい。私はそれを、セヴェリナに教えていたの」  納得できる話ではなかったが、現実はそうだと言われれば仕方ない。しかし、姉は遠く実家を離れ、ようやく乳が離れたばかりの幼子を育てている。頼れる人間は義兄ひとりなのだ。それなのに、伴侶としてあまりに無責任ではないか。  アデーレは義兄の不実に憤り、セヴェリナがどんなにか心細かろうと胸を痛めた。そして、せめて実家にいる間は、自分が姉の心を慰めようと決心した。  末娘ではあるが、アデーレは生来しっかり者で面倒見がよく、情に厚い。気の毒な姉を放っておくなどできないのだ。早速アデーレは温室で園丁に切らせた花を持って、セヴェリナの部屋を訪問した。 「そう、お母さまから聞いたのね。ごめんなさい、あなたに心配をかけてしまったわ」  しょんぼりした表情で、セヴェリナがため息をつく。アデーレは姉がますます気の毒に思えた。 「可哀そうなお姉さま、まだ小さい赤ん坊がいるというのに、お義兄さまは思いやりのないことをなさいます」 「いいえ、私がいけないの。望まれていたのに、男の子を生めなかったのだから」  アデーレは目を丸くした。11歳の自分ですら、赤子の性別が神の采配であることくらい知っている。しかし旧態依然の貴族の中には、母体の優劣に依るものだと信じている者もいる。義兄の一家がまさにそうであったらしい。  セヴェリナの生んだ子は女の子で、義兄はとても喜んだし可愛がってもいるのだが、男児を熱望する義父母が義兄に妾を宛てがった。遠い親族にあたる爵位の低い娘だそうだが、もう間もなく生まれるそうで、もしも男の子なら長男として婚家で育てるという。 「そんなわけで、居たたまれなくなって実家に逃げてきたのよ。情けないでしょう。お母さまにも叱られたわ、正妻なら何があっても毅然としていなさい、って」 「お姉さま……」  どんなに理不尽でも、屈辱的でも、嫁いだ以上は婚家のしきたりの中で生きるしかない。それが貴族女性の運命である。アデーレも将来、その大きな渦の中に飲み込まれていくのだ。 「お相手の方、もし男の子が生まれたら、乳母として屋敷に召し上げるとお義母さまが仰っていたわ。肩身が狭くなるでしょうけど、堪えないといけないわね。旦那さまを不機嫌にさせないようにして、私も一日でも早く男の子を授からなくては」  セヴェリナが身やつれしていた原因は、このことだったのだ。悔しいが、アデーレには何の解決策もない。膝の上で拳を握りしめていると、その手を姉のふっくらとした手が包んだ。 「ねえ、アデーレ。あなたは、私のようにはならないでちょうだいね。私は誰かが決めたことに従うしかできないけれど、あなたは私より賢いんだもの。もっとうまく生きられるはずよ」  その夜、アデーレはセヴェリナのことを考えてなかなか眠りにつけなかった。春の陽ざしのように朗らかで美しかった姉が、まるで別人のように感じられた。自分が生まれる少し前、母もまた次兄の誕生で同じ苦しみを味わったのだろうか。そして父はそんな母を見て、心苦しくならなかったのだろうか。  きっと今は誰に聞いても、「大人には色々あるのだ」で済まされてしまうだろう。しかしアデーレはこの嫌な感覚をなるべく覚えておきたいと思った。よくあることだと麻痺して同類になるのが嫌だった。 「ええ、お姉さま。私はお姉さまのようにはならないわ」  アデーレは独り言ちて目を閉じた。大人の階段を一歩ずつ上がるたびに、それまで見えなかったものが見えてくる。それは決して美しいものばかりではないが、目をそらすまいとアデーレは心に誓った。  それから程なくして、セヴェリナの婚家から使いがやってきて、妾の生んだ子が女の子だったと知らされた。それを聞いたセヴェリナは現金なもので、あの陰鬱な落ち込みはどこへやら、そそくさと荷物をまとめると夫の待つ婚家へ帰って行ってしまった。  一刻も早く夫との間に男児をもうけ、己の立場を盤石にする。それもまた女の処世術である。きっとこの瞬間には、彼女の闘いは始まっているのだ。セヴェリナを乗せた馬車を見送りながら、アデーレは「幸せな結婚とは何だろう」と考え続けていた。
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