第五話/ハンナはおうちに帰れない

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第五話/ハンナはおうちに帰れない

 姉の里帰りからしばらく経ったころ、アデーレはヴィトーと小さな喧嘩をした。理由はヴィトーが馬小屋にアデーレを入れてくれないことだ。いつもは大人に見つからないよう、小屋の中に隠れてスケッチ遊びをしているのに、その日に限ってあれこれ理由をつけてアデーレを締め出そうとした。 「いじわるね、ダメしか言わないんじゃわからないわ」 「ごめんよ、でも本当に今日はダメなんだ。また別の日にね」 「もういいわ、ヴィトーなんて大嫌いよ!」  頬をふくらませてアデーレが走り去った。ヴィトーは「やれやれ」と肩をすくめ、馬小屋の二階に向かって声をかける。 「もう出てきていいよ」  馬小屋の一角には粗末な梯子がかけられ、梁の上がガラクタ置き場になっている。もう何年も放置されたままで、ヴィトーたちのスケッチ用品もそこに隠してあるのだが、そのガラクタの隙間から一人の女の子が顔を出した。輝くような金色の髪と瑠璃のような青い瞳。この田舎では滅多に見ない、美しい娘である。 「ごめんなさいね、お友だちを追い返してしまって」 「いや、事情を知ってる人間は少ない方がいいだろ」  少女の名前はハンナという。年齢はヴィトーよりひとつ年上の15歳。半年ほど前、伯爵家に客間女中(パーラーメイド)として雇われた。客間女中とは、文字通り応接間で来客をもてなす女中で、主人が客を招いてカード遊びをする際や、夫人が催す茶会などでも給仕を務める。要するに外部の人間に見栄を張るための、見目の良い使用人である。  資産の潤沢な大貴族であれば、客間女中がいるのは当たり前だが、ペルコヴィッチ伯爵家のような貧乏貴族には、やや贅沢が過ぎると言えよう。しかし、家政婦長であるロドラー夫人の強い推薦であり、さらには伯爵もハンナの美貌を大いに気に入ったため、雇い入れることになったらしい。 「悪いわね、あとしばらくここにいさせてちょうだい」  なぜ、客間女中のハンナが馬小屋のガラクタ置き場に隠れているか。それは彼女の実家の事情に依る。伯爵家の使用人は、半年ごとに一週間ほどの宿下がり休暇が与えられている。ハンナの実家は、ペルコヴィッチ伯爵領の領都であるレヴェックの大きな商家であるが、彼女は後妻の連れ子で継父や義理の兄姉たちとは血縁がないため、常に冷遇されていた。  特に最近はハンナが美しく成長したせいで、義兄から良からぬ悪戯をされるようになった。母親に泣いて訴えるも、継父の機嫌を損ねないよう、うまく躱せと娘を叱咤するばかり。そのため実家に帰りたくないハンナは、宿下がりをしたふりをして馬小屋に隠れていたのだ。  もちろん休暇返上で働いてもいいのだが、そうするとロドラー夫人にあれこれ詮索されてしまう。これ以上、居心地の悪い思いをしないためにも、屋敷のどこかで息を潜めてやり過ごそうと思った。それがたまたま馬小屋の二階で、絵の道具を取りに来たヴィトーに見つかってしまったというわけである。 「別に迷惑じゃないから大丈夫。じゃあ、僕は仕事に戻るね」  ハンナから事情を聞いて気の毒に思ったヴィトーは、誰にも口外しないと約束し、雇い主の娘であるアデーレにも伏せておくことにした。お陰でアデーレにはさんざんごねられたが、なんとか追い返すことができたので、ほっとして仕事の続きに戻って行った。  しかしアデーレは諦めていなかった。どうにもヴィトーの様子が腑に落ちなかったので、馬小屋近くの木陰から入り口を見張り、ヴィトーが出て行ったのを確認して中へ入ってみた。何か隠しておきたいものがあるはずだ。すると、二階からアデーレの頭上に女の声が降って来た。 「ヴィトー、戻ってきたの?」  はっとして頭上を仰いだアデーレとハンナの目が合った。お互い驚き、じっと顔を見つめ合っていたが、そのうちハンナが相手が誰なのかに気づき、弾かれたように背筋を伸ばした。 「お、お嬢さま!」 「えっ? あなた、もしかして……えっと」 「女中のハンナです、申し訳ありません、すぐ下りて参ります!」  そこからのハンナは潔かった。アデーレに事の次第を全て打ち明け、自分はどんな処罰でも受けるので、どうかヴィトーを責めないでやってくれと懇願した。アデーレはその様子を見て、すっかりハンナのことが気に入ってしまった。 「まあ、処罰なんてしないわ。だって、あなた何も悪くないじゃない。馬小屋に泊まってはいけない、なんて決まりはないし、実家で冷たくされているなんて可哀そう。ねえ、それよりずっとあそこにいたんなら、お腹が空いてるんじゃない?」  ハンナはアデーレの温かい言葉に、胸の奥がぐっと詰まるのを感じた。可愛がられて育った貴族令嬢の中には、高慢ちきになる娘も多いのだが、アデーレの場合は鷹揚な性質が良い方向に伸びた。  何て良いお嬢さまなのだとハンナが感動していると、アデーレが瞳をパッと輝かせた。何やら思いついたようである。 「ちょっと待ってて!」  そう言うとアデーレは屋敷の方へ駆け出した。そしてしばらくして戻ってきたときには、胸元に大きな包みを抱えていた。 「おやつのベニエと、頂き物のビスケット。食堂から果物とパンもくすねて来ちゃった。ミルクもあったんだけど、こぼれるから持ってこられなかったの。ごめんなさいね」  アデーレは手にりんごを持って、いたずらそうに笑っている。それを見て、ハンナは思わず泣きだしてしまった。実家で厭われ、奉公先でも気の休まることなどなかったので、久々に裏表のない親切に触れて、溜めていたものが噴出してしまったのだ。 「まあ、どうしたの? 何が嫌いなものがあった?」 「と、とんでもない、私などにもったいない御心使いを」 「やだ、気にしなくていいのよ。ここ、夜は冷えるでしょう? よかったらこの毛布も使ってちょうだい」  アデーレはお古の毛布をわざわざ持ってきたらしい。ハンナはその夜、アデーレの温かさに包まれながら、その日二度目の嬉し泣きをした。  アデーレが再びハンナに会ったのは、それから10日ほど経ったある夜のこと。ペルコヴィッチ伯爵家には四人の子がいるが、長姉は隣領に嫁ぎ、次兄は軍学校に入って寄宿舎生活をしている。また、夫人のバージットは離れで起居しているため、母屋二階には、当主である伯爵と長兄、そしてアデーレだけが暮らしている状態だ。  その二階のどこかで、乱暴にドアが開く音がして、女の悲鳴と男の怒声が響きわたった。かなり大きな音だったので、すでに眠っていたアデーレも起き出して廊下の様子を伺ってみた。すると、父の寝室のドアが開かれ、怒鳴っている父の足元にハンナが崩れ落ちている。それを、ガウン姿の長兄と侍従が宥めている最中だった。 「自分の立場をわきまえろ! 誰に雇われていると思っているのだ!」  父は酔っているようで、それ自体はたまにあることなので驚きもしなかったが、ハンナが鼻から血を流しており、頬も赤く腫れている。アデーレは咄嗟に、寝間着のまま駆け出した。 「まあハンナ! あなたどうしたの? まさか、お父さまに叩かれたの?」  ハンナは何も言わずに震えている。アデーレは父親をきっと睨みつけた。 「お父さま! 女性に手を上げるなど、紳士のなさることではありませんわ!」  可愛い末娘に睨まれ、さすがに伯爵もばつが悪かったようだ。長兄と侍従を押しやって、そそくさと寝室に戻ってしまった。  その夜は長兄に「もう寝なさい」と寝室に押し込まれ、アデーレはそれからどうなったのか気になっていたが、翌朝女中たちがテラスの下で噂話をしていたお陰で、事の顛末を知ることができた。  酔った伯爵がハンナを寝室に引き入れようとして、抵抗されたため打ち据えたのだという。ペルコヴィッチ伯爵はアデーレにとっては優しい父親だが、若いころから好色で、何人もの女中に手をかけている。アデーレもそろそろ思春期になり、そういう面には嫌悪感を抱いていた。 「でも、ハンナってロドラー夫人が旦那さまへの貢物として口入れしたんでしょう? 夜のお相手があること聞かされてなかったのかしら」 「これが奥様に知れたら、また一悶着あるんじゃないの」 「ロドラー夫人と奥様は、犬猿の仲だものねぇ」  その会話を聞いて、アデーレはぼんやりと状況を理解した。そして同時に、静かな怒りが湧いてきた。ロドラー夫人がどういうつもりか知らないが、ただでも苦労をしているハンナなのに、これ以上気の毒な目に遭わせるなど、アデーレには到底許せないことだった。
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