第六話/リネン部屋の4人の女たち

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第六話/リネン部屋の4人の女たち

   それからアデーレはロドラー夫人に関して調べようと画策したが、さすがに正攻法では難しい。しかし意外なところに情報源が見つかった。ヴィトーである。使用人の間では、先日の事件がけっこうな噂になっているらしい。  アデーレは「大嫌い」と言ったことを謝って仲直りした上で、噂の内容を聞かせてもらった。その結果、ロドラー夫人だけでなく自分の父についても、頭を抱えたくなるような事実を知ることとなった。  ロドラー夫人は、もともと伯爵の妹の侍女として屋敷に奉公していた。代官のロドラー家に嫁いで一時は仕事を離れていたが、伯爵が当主になると同時に家政婦として復帰し、十年ほど前からは家政婦長として家事の実権を握っている。しかし、癇癪持ちで女中からの評判は芳しくないという。 「ロドラー夫人は、どうしてハンナをお父さまに差し出そうとしたのかしら」 「旦那さまに気に入られたいからなんじゃないかな。元はロドラー夫人もお手付きだったらしいけど、容色が衰えてからは若くてきれいな娘を旦那さまに貢いでるんだって」  なんとロドラー夫人は、伯爵の女好きにつけこんで己の立場を守っているらしい。ハンナも容姿を見込まれて連れてこられたのだろう。そして実家も彼女を厄介払いした。15歳の少女にとって、どんなに心細かったことか。  何より心配なのは、今後も父がハンナに手を伸ばすだろうということだ。本人が納得しているなら別だが、ハンナは主人の慰みものになることを望んでいない。年端もいかない少女が大人の力で蹂躙されるのを、アデーレは見過ごすことができなかった。 「そう言えばブランドン様の母上も、ロドラー夫人が旦那さまに紹介したっていう話だよ」  アデーレは本当にこめかみが痛くなってきた。取りあえずはハンナの身の安全のために、早急に策を講じねばならない。そこでアデーレが頼ったのが、母のバージットである。もちろん例の事件は彼女の耳に届いていたが、今さら夫の女癖の悪さには驚きもしない。ただ、ロドラー夫人が一枚噛んでいると聞いて、バージットは俄然やる気を見せた。 「お母さま、どうかハンナを私の侍女にしてくださいませ。そうすれば、きっとお父さまも無体をなさらないと思うのです」 「そうね、あなたもそろそろ侍女をつけてもいい頃ね。年も近いし、いいかもしれないわ」  姉のセヴェリナには10歳から侍女がつき、嫁ぐ際もその侍女を連れて行った。現在は伯爵家の財政状況がよろしくないので、アデーレの世話は女中たちが交代で行っているが、間もなく嫁入り支度をせねばならない年頃である。伯爵令嬢として、きちんと侍女を付けた方がいいのは確かであった。 「ありがとうございます。でも……、お父さまは反対なさるでしょうね」 「大丈夫よ、お母さまに任せておきなさい」  バージットは、娘にやさしく微笑みながら、扇子の陰で口角をにやりと上げた。彼女とロドラー夫人は、水面下で常に闘いを続けている。夫をそそのかして家政を我が物顔にしている女狐に、一泡吹かせる絶好の機会が訪れたのだ。  バージットの仕掛けに獲物がかかったのは、その三日後。朝、長兄のセルジュが馬を出そうとして、愛用の鞭がないことに気づいた。普段は厩舎の壁に掛けてあるはずなのだが、セルジュのものだけが見当たらない。家族はそれぞれ自分用の馬具を使うので、父や母が間違えて持って行ったとは考えにくい。 「ふん、大方ブランドンがくすねて行ったのだろう。あいつのやりそうなことだ」  次兄のブランドンは軍学校の寄宿舎生活だが、季節ごとに数日間の帰省をする。つい先週も屋敷に帰って来ていたことから、セルジュはブランドンが鞭を勝手に持って行ったと決めつけたようだ。  ただし、厩舎の番人も家族もこの考えには否定的だった。ブランドンは明朗で正義感が強く、他人の物をくすねるような性格ではない。それでも、セルジュはブランドンを何かにつけ見下した発言をする。その度に父母に窘められるが、妾腹だというだけではなく、実際のところ自分より優秀であることが気に食わないのだ。  使用人たちで手分けして屋敷の中を改めてみるということで、何とか父がセルジュを説得したものの、よほど気に入りの鞭だったようで、その日は一日中機嫌が悪かった。そしてその夜、ついに事件は起こった。 「きゃああ!」  複数の女性の悲鳴が、地下のリネン部屋から響いた。そこは洗濯したシーツや肌着などを管理する部屋だが、夜間は誰も使っていないはずの場所である。そのリネン部屋で4人の女たちが、驚愕に顔を引きつらせていた。  一人は、壁に手を押し付けた格好のハンナ。肩越しに振り返り、大きく目を見開いている。二人目は、部屋の入口に立って卒倒しかけている伯爵夫人。三人目は、ロドラー夫人。こちらは鞭を手に持ち、顔を真っ青にしている。最後にアデーレが鞭で打たれて床に這いつくばっていた。耳の後ろから背中にかけて、服に覆われていない皮膚が裂けて血が流れている。 「お、お嬢さま、なんで、ここに!」 「アデーレ! しっかりして、アデーレ! 誰か、お医者様を!」  なぜこのような事態に陥ったか。それはその朝、バージットがロドラー夫人に「ハンナをアデーレの侍女に召し上げる」と通告したことに端を発する。ペルコヴィッチ伯爵は案の定、ハンナをアデーレに与えることに難色を示したが、バージットが先日のみっともない事件を引き合いに出し、強引に押し切る形で了承を得たのだ。  しかし、ロドラー夫人はその決定が気に入らなかった。女中は自分の監督下だが、侍女になれば権限は直属の主人に移る。ハンナの場合はアデーレに権限があり、実質上は彼女の母であるバージットが取り仕切ることになる。つまりは、ロドラー夫人の手が及ばなくなるというわけだ。  ロドラー夫人は憤慨した。せっかく伯爵の気に入りそうな娘を探して、屋敷に連れて来たというのに。少なくない支度金も、自分の懐から都合したのだ。あの娘が役に立たないとなれば、それが丸損になるではないか。そう思って侍女を辞退するようハンナに強要したのだが、ハンナは頑として首を縦に振らなかった。そこで、癇癪を起したロドラー夫人は、ハンナをリネン部屋で折檻しようとしたのだ。  そこまでは、バージットの計算のうちであった。癇癪持ちのロドラー夫人が、気に入らない女中を夜中にリネン部屋でいたぶるのは昔から知っていた。そしてそれに乗馬鞭が使われることも。そこで、セルジュの鞭をリネン部屋に隠してある鞭と入れ替え、現場を抑えたところで窃盗の罪を着せようと計画した。そうすればロドラー夫人を失脚させられる。しかし、まさか自分の娘がハンナをかばって鞭の前に飛び出していくとは、予測できなかった。  アデーレが夜中にリネン部屋を訪れた理由は、せっかく侍女になることを許可されたのに、ハンナが暗い顔をしていたせいだ。どうしたのか聞いてみれば、ロドラー夫人から侍女を辞退するよう圧力をかけられていると言う。 「そんなの、断ればいいわ。お母さまがお決めになったのだから、あなたは堂々としていればいいのよ」 「はい、もちろん断りました。でも、ロドラー夫人は怒っておられます。今夜リネン部屋に呼び出されているので、お叱りを受けるかもしれません」  そう聞いていたアデーレは、ハンナをかばってやろうとリネン部屋へ行き、壁に手を付けて今にも鞭打たれそうになっているハンナを発見した。そして咄嗟に駆け出してハンナの背中に覆いかぶさったのだ。  そこからは、屋敷中が大騒ぎとなった。可愛い末娘を傷つけられた伯爵夫妻は激怒し、即刻ロドラー夫人を解雇した。鞭を盗んだのがロドラー夫人だと思ったセルジュも、彼女の婚家ごと取り潰してやると息巻いている。もう二度とペルコヴィッチ伯爵領でロドラー家が栄えることはないだろう。  アデーレは一晩だけ高熱が出たものの、数日で回復して元気になった。ただし首の後ろの傷は、鞭で裂かれているため醜く膨れ、年月とともに薄れはしても痕は残るだろうというのが医者の見立てであった。責任を感じたハンナは泣きながらアデーレに謝罪したが、当の本人は全く気にする様子がない。 「もう痛くないから平気よ。髪を下せば見えない場所だし。それより私、ハンナが侍女になってくれた喜びの方が大きいの。これから、どうぞよろしくね」 「ああ、お嬢さま。何ともったいないお言葉でしょう」  そう言ってハンナはまた泣き出した。実の母親でさえ彼女を見捨てたのに、アデーレは情けをかけてくれた上に、身を挺して守ってくれたのだ。それを思うと、生涯をかけてこの主人に尽くしていきたいという想いが、ハンナの胸の奥から溢れてきた。 「ねえ、ハンナ」  アデーレは快活な笑顔を閉じて、窓から空を見上げた。間もなく訪れる秋を知らせるかのように、鰯雲が夕陽に照らされ輝いている。 「私の世界は、とっても狭いの」  窓の外を見たまま、アデーレはまるで独白のように語り始めた。ハンナはアデーレが心の内にある何かを伝えようとしているのだと察し、黙ってそのまま見守った。 「この屋敷は街から離れているし、兄や姉は年がずいぶん上だから、私は同年代の友だちがほとんどいないわ。今までは周りの大人に可愛がられて、この世は幸せな場所なのだと思っていたけれど……」  アデーレはそこで一旦、息を継いだ。そして言葉を選びながら、やがて思い切ったように想いを吐き出した。 「そればかりではないということが、少しずつわかりかけてきたの。きっと私は甘やかされて、幸せな夢を見ていたのでしょうね」  明るくふるまってはいるが、ただでさえ多感な時期にあって、アデーレの身に起こった一連の出来事は、体だけでなく心にも深い傷痕を刻んだようだ。ハンナはたまらず駆け寄り、その足元に跪いた。 「ええ、アデーレ様。この世は確かに、良いことだけではありませんわ」 「ハンナ」 「しかし、この先どんなことがあろうとも、ハンナはアデーレ様のお傍におります。そして、あなた様に尽くしお守りする事を誓います」  ハンナは瑠璃色の瞳で、アデーレを真っすぐ見上げた。この日からアデーレとハンナは、固い信頼で結ばれた主従関係となった。そして長きにわたり、共に激動の日々を乗り越えていくことになる。  Season1――完――
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