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第一話/筆に宿りし神からの啓示
リネン部屋で起こった事件から、約一年が過ぎた。アデーレは12歳になり、やせっぽちだった体にも少しずつ丸みが出てきた。本人は相変わらず凡庸な容姿を嘆いていたが、ハンナが侍女となったことで身なりに磨きがかかり、娘らしい愛らしさが増してきた。
それに気を良くしたのが、母親のバージットである。少しでも良い家に嫁げるよう、彼女はアデーレに本格的な淑女教育を施すことにした。週に2回、領都レヴェックへ通い、フィニッシングスクールで歴史やマナー、ダンスなどを学ぶのだ。
本来は領主であれば、屋敷にガヴァネス(家庭教師)を招くのが筋ではあるが、いかんせん伯爵家には金がない。そこで伯爵夫妻は「アデーレの社会勉強も兼ねて通学させる」という名目を、無理やりに捻り出したらしい。教師はかつて大公家の侍女を務めた高齢の貴婦人で、厳しい指導には定評がある。伯爵令嬢と言っても野良育ちに近いアデーレには、これがなかなかに忍耐を強いられる時間であった。
それもあって、最近アデーレとヴィトーがスケッチ遊びをすることも少なくなっていた。時間がないだけでなく、アデーレがヴィトーに対して照れくさく思い始めたことも大きい。この一年で彼はずいぶんと背が伸び、体つきがしっかりとしてきた。無理もない、ヴィトーも間もなく15歳を迎える。痩せっぽちであることは変わらないが、声が低くなり髭が生え、大人の男性に近づいていくのは当然のことであった。
そんなある日、久しぶりにヴィトーはアデーレを描いていた。この頃ドレスの丈が長くなったせいか、以前にスケッチした時とは画面の雰囲気がずいぶんと異なる。しかしそれは服装や髪型のせいだけではなく、アデーレの精神状態によるところが大きかった。
実はつい先日、アデーレは初潮を迎えた。それ自体は健康な女性の成長過程として喜ばしいものであったが、自分の体が少女から大人の女へと変わっていくことに、アデーレは戸惑いや気恥ずかしさを禁じえなかった。その不安定な心持ちが、滲み出ていたのかもしれない。ヴィトーはアデーレを描きながら、不思議な感覚が内面に漲ってくるのを感じた。
「何だかちょっと、今日のアデーレは雰囲気が違うね」
「えっ、そうかしら、いつもと同じよ」
アデーレは慌てて笑顔を取り繕った。ヴィトーはそういう意味で言ったのではなかったが、アデーレは視線の怪しさを気取られたのではないかと内心で焦った。実は彼女は、木炭を握るヴィトーのしなやかな指や、それを紙に滑らせるたびに浮かび上がる、腕の筋肉に見とれていたのだ。
しかしそんなはしたない事は、口が裂けても言えない。父や兄を見ても何とも思わないのに、ヴィトーに限ってどきどきして頬が熱くなる自分は、何か異常なのではなかろうかとアデーレは思った。小さな恋の芽生えを自覚するには、彼女は少し幼な過ぎたらしい。
そして、そういう類の感情の揺れは、相手にも伝播する。ヴィトーはもじもじしているアデーレを眺めているうち、先ほどからの不思議な感覚がどんどん膨らんでくるのを感じた。それは彼が今までに体感したことのない、強い渇求や性的な興奮、そして少しの不安が入り混じった、甘美な痺れであった。
気がつけば、ヴィトーは夢中になって絵を描いていた。アデーレから発せられる得体のしれない引力に惹き寄せられるがまま、その渦の中に飛び込んで身を委ね、そこから生じた混沌を画面に叩きつけては、また渦の深みへと沈んでいく。
どれだけそうして描き続けていただろう。時間にすればほんの数分だったかもしれないが、ヴィトーには永遠の長さにも感じられた。やがてようやくヴィトーが正気に戻ると、そこにはかつて彼が描いたことのない、なんとも煽情的な肖像画が出来上がっていた。
アデーレは椅子に座って、やや上目遣いにこちらを見上げるポーズで、着衣の乱れは一切ない。それにも関わらず、その絵には滴り落ちるような情欲が漂っていた。
「なんだか、いつもの絵と違うわね」
「うん、どうしたんだろう。何だか頭がぼーっとして、変な気持ちになって、気がついたらこの絵を描いていたんだ」
「変な気持ち?」
「うん、うまく説明できないんだけど……」
後年、ヴィトーはこのような恍惚状態を何度か経験し、その度に特異な作品を残すことになる。それは当初、あまりの画風の違いにより彼の作ではないという疑惑を持たれたが、鑑定の結果本物だと証明され、蒐集家の間で高値が付いた。その第一号となる作品が、この少女時代のアデーレを描いた木炭による一枚である。
しかし、この時の二人に絵の価値などわかるはずもなく、取りあえず彼らが直感的に理解したのは「これは誰かに見られてはいけない」ということだ。それほどその絵は、背徳的な気配に満ちていた。
二人はその絵を、馬小屋二階の物置に隠すことにした。他の絵はアデーレの自室に保管していたが、そこは掃除の女中に見られてしまう可能性がある。しかし万年放置されている物置なら、あと10年くらいは誰にも気づかれないだろう。そう思って、その絵のことはしばらくすると、二人ともすっかり忘れてしまっていた。
それからしばらくしたある日、厩舎の近くでヴィトーは侍女を従えた伯爵夫人に声をかけられた。前回のことで凝りていたため、何を言われるのだろうと身構えたが、意外にも来月行われるパーティーの余興で、絵を描いてみないかという打診であった。
「そんな場所へ出るのは、恐れ多くて……」
田舎貴族とはいえ、パーティーとなれば身分の高い客が大勢集まることになる。その中に馬小屋の下男が放り込まれて、委縮しないわけがない。第一、本職の画家でもないのに貴族の前で絵を描くなど、考えただけでもヴィトーは眩暈がしそうだった。
「いいのよ、そんなに固くならなくても。たまには何か面白い余興をしたくて、お前のことを思い出したの。絵を見せたら、旦那さまも気に入ってくださって、ぜひやらせなさいって仰ってるのよ」
バージットは先日ヴィトーが描いた絵を、ペルコヴィッチ伯爵に見せたらしい。伯爵はその絵を描いたのが下男の少年だと聞いて驚き、妻が企画した余興に乗り気になった。来客の似顔絵を即興でスケッチするだけだが、きっとみんな気に入るはずだ。何しろこの田舎では、誰もが娯楽に飢えているのだ。
「そこで、その前にまずは私たち家族の絵を描かせてみたいそうよ。道具はこちらで用意してあげるから、明日の仕事が終わったら母屋に来なさい」
伯爵からのお達しならば、下男に断れるはずなどない。ヴィトーは了承の意を伝え、困ったことになったと頭を抱えた。そしてそのことをアデーレに告げると、既に彼女にも伯爵からヴィトーについての探りが入っていた。
「一緒に遊んでたこと、怒られるかなと思ったんだけど、あなたの絵に感心したみたい。私を描いてくれた絵も何枚か見せたわ。びっくりしてた、あんまり上手だから」
これでいよいよ逃げられなくなった。ヴィトーは観念して頭を搔いた。このぼさぼさ髪やボロ服で伯爵の前に出ると思うと憂鬱になってくるが、アデーレは父にヴィトーの絵を褒められて上機嫌らしく、目をきらきらさせながら、ある提案を持ちかけて来た。
「ねえ、せっかくお客さまに絵を披露するんだから、この機会に名前を付けてみるのはどうかしら」
「名前?」
「そうよ、スードニムって言うんですって。本当の名前の他に、絵を描いたり文学を書いたりするときの名前を持つ人がいるの」
アデーレは本職の画家がそうするように、絵の片隅に雅号(スードニム)を入れてみてはどうかとヴィトーに勧めた。しかしヴィトーは即座にこれを拒否した。下男風情が落書きの延長で描いている絵である。そんな御大層なものではないのだ。
「そんなの大袈裟だよ、本物の画家でもないのに」
「あら、お客さまから仕事のお声がかかるかもしれないわよ。ヴィトーっていう名前も素敵だけど、画家向けではないわ。もっとロマンチックなのはどう? 例えば、ミロスラヴ」
「ミロスラヴ?」
「そう、ミロスラヴ。素敵な響きでしょう? お父さまの書斎にあった名鑑から選んだの。今日からあなたは、画家のミロスラヴよ」
後に不世出の画家と呼ばれるミロスラヴは、こうして誕生した。学校に行かなかったヴィトーは、読み書きについては自分の名前が書ける程度だったが、アデーレに命じられて「Miloslav」の署名を覚えた。以後、彼の作品には左下に小さくミロスラヴの名が記されることとなる。
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