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その人が席を立ったのは、九時を少し回ったころだった。
もう空はすっかり暗くなっていて、明日の雨予報に向けて、少しずつ雲が増えてきているのがうっすらと見える。
彼は、本を読みながら、三時間近くかけてクリームソーダを完食した。
少しずつ緑色の海に沈んでいくソフトクリームを急いでスプーンでかき込み、かと思ったら今度はその存在すら忘れてしまったかのように本に没頭し、しばらくして思い出したように慌ててスプーンで救い出すことを繰り返していた。
ホールの仕事をこなしながらもつい目で追ってしまうほど彼は表情豊かで、きっと年は私よりも上なんだろうけど、その様子はとても可愛らしかった。
正直なところ、私はちょっと彼との別れが名残惜しくなってしまっていたけれど、彼は当然のように私には目もくれずお金を払って、そのまま店を出て行ってしまった。
一期一会なんて言葉はあっても、店員と客の出会いなんて、現実はこんなものだ。
「模武さん、もう上がっていいよ」
「お先に失礼します」
「お疲れさま」
店長と退勤の挨拶を交わし、私は外に出た。
閉店まで残り一時間になっても、カフェの中にはまだ活気が残っている。
どんよりとくすんできた空とは正反対だ。
私はふうっと息を吐き、最寄りのバス停までの道のりを歩き出した。
『ペンギンカフェ』は知る人ぞ知る立地のせいで交通の便はけっこう不便で、いわゆる駅近とは無縁の場所にある。
一番近い駅までは徒歩三十分くらいなので歩けない距離ではないけれど、暗くなってしまうとなんとなく落ち着かなくて、バスを使うことにしていた。
そうしてたどり着いた駅のホームで、少しずつ出来上がりつつある人の列の中でも短いところを探して、一番後ろにつく。
またふうっと息を吐いてから顔を上げ、私は呼吸を止めた。
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