200人が本棚に入れています
本棚に追加
横断歩道の信号が点滅し始めると、室長はゆっくりと足を止めた。
ダッシュで通り過ぎていく人たちがたくさんいるのに、室長は流されない。
信号が完全に赤に変わっても、オレたちの間に会話はなかった。
室長は、相変わらずオレのことなんてそっちのけで、ビニール傘の向こう側を見つめている。
どうしようもなく悔しくなって、オレは室長の真似をしてみることにした。
傘の中心に身体を当てはめて、この時間帯にしては色濃い空を見上げる。
降ってくる雨の雫には、形も、色も、なにもない。
オレの上に落ちてくる雨は、傘に触れるとすぐにただの潰れた水の塊になり、伝い流れて地面に落ちるだけ。
なにが違うんだろう。
室長には違う景色が見えているとでも言うんだろうか。
こんなにもすぐ近くにいるのに。
「模武鴨くん」
「……はい」
「どんな小さな仕事にも、どんな退屈な仕事にも、もちろん意味はあるし、価値もある」
「……」
「けど、『そんなんやってられっか!』って傲慢になれるのは、若いうちだけだぞ」
「……なにが言いたいんですか」
「あんまり〝いい子〟になるなよってこと」
やっと、視線が交わった。
「もうすぐ、OJTも終わりだな」
室長の目尻が、トロンと垂れた。
咄嗟に視線を引き剥がし、濡れた革靴のつま先を見下ろす。
「室長は、知ってるんすか」
「なにを?」
「オレの配属先」
「うん」
「え! どこッ……」
「言うわけないだろ」
正式な内示が出るまでは、口外してはならない――そんな社内ルール、あってないようなものなのに、律儀に守っているところが、いかにも室長らしい。
オレは追求することを早々に諦めて、でも、ちょっと足掻いてみることにした。
「んじゃ、せめてヒントくださいよ」
「うーん、そうだな……模武鴨くんが、いっぱい成長できるところ」
「成長……?」
「この春そこの課長になった人が、俺の尊敬する人なんだ。だから、存分に学んでおいで」
まるで子どもに言い聞かせるように言われたのに、不思議だ。
室長の言葉は、なんの抵抗もなく、ストンと心に落ちてきた。
「模武鴨くん」
穏やかだった声が、ふいに固い空気をまとう。
「俺は、模武鴨くんの最初の上司だ。OJTが終わってもそれは変わらないし、迷ったり困ったりしたらいつでも頼ってほしい」
「それって、オレが突っ走って無茶しても、室長が尻拭いしてくれるってことですか?」
「うん。あ、でも限度はあるぞ? 俺にも、拭える尻と拭えない尻があるからな」
やたら真剣に釘を刺してきたと思ったら、室長の意識はまた雨に奪われていた。
心の奥から、ざわざわした感情がせり上がってくる。
まるで、隣に立っているのに、オレにはまだそんな資格はないと言われているようで。
はじめてだ。
雨に、嫉妬するなんて。
信号が、青に変わった。
人の波に紛れるように、室長の背中が遠ざかっていく。
「神崎室長!」
真っ直ぐに伸びた白い背中が振り返る。
オレは、肺を湿った空気で満たした。
そしてーー
「オレ、頑張ります!」
アーモンド型の目が、素早く瞬く。
「一生懸命頑張りますから!」
「……」
「また、室長と一緒に働けるように!」
横断歩道の真ん中で叫ぶオレを、行き交う人たちが面倒くさそうに避けていく。
神崎室長は、もう一度空を見上げてから、ゆっくりと視線をオレに戻した。
そして、
「うん、頑張れ」
きれいに、笑った。
最初のコメントを投稿しよう!