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横断歩道の信号が点滅し始めると、室長はゆっくりと足を止めた。
ダッシュで通り過ぎていく人たちがたくさんいるのに、室長は流されない。
信号が完全に赤に変わっても、オレたちの間に会話はなかった。
室長は、相変わらずオレのことなんてそっちのけで、ビニール傘の向こう側を見つめている。
どうしようもなく悔しくなって、オレは室長の真似をしてみることにした。
傘の中心に身体を当てはめて、この時間帯にしては色濃い空を見上げる。
降ってくる雨の雫には、形も、色も、なにもない。
オレの上に落ちてくる雨は、傘に触れるとすぐにただの潰れた水の塊になり、伝い流れて地面に落ちるだけ。
なにが違うんだろう。
室長には違う景色が見えているとでも言うんだろうか。
こんなにもすぐ近くにいるのに。
「模武鴨くん」
「……はい」
「どんな小さな仕事にも、どんな退屈な仕事にも、もちろん意味はあるし、価値もある」
「……」
「けど、『そんなんやってられっか!』って傲慢になれるのは、若いうちだけだぞ」
「……なにが言いたいんですか」
「あんまり〝いい子〟になるなよってこと」
やっと、視線が交わった。
「もうすぐ、OJTも終わりだな」
室長の目尻が、トロンと垂れた。
咄嗟に視線を引き剥がし、濡れた革靴のつま先を見下ろす。
「室長は、知ってるんすか」
「なにを?」
「オレの配属先」
「うん」
「え! どこッ……」
「言うわけないだろ」
正式な内示が出るまでは、口外してはならない――そんな社内ルール、あってないようなものなのに、律儀に守っているところが、いかにも室長らしい。
オレは追求することを早々に諦めて、でも、ちょっと足掻いてみることにした。
「んじゃ、せめてヒントくださいよ」
「うーん、そうだな……模武鴨くんが、いっぱい成長できるところ」
「成長……?」
「この春そこの課長になった人が、俺の尊敬する人なんだ。だから、存分に学んでおいで」
まるで子どもに言い聞かせるように言われたのに、不思議だ。
室長の言葉は、なんの抵抗もなく、ストンと心に落ちてきた。
「模武鴨くん」
穏やかだった声が、ふいに固い空気をまとう。
「俺は、模武鴨くんの最初の上司だ。OJTが終わってもそれは変わらないし、迷ったり困ったりしたらいつでも頼ってほしい」
「それって、オレが突っ走って無茶しても、室長が尻拭いしてくれるってことですか?」
「うん。あ、でも限度はあるぞ? 俺にも、拭える尻と拭えない尻があるからな」
やたら真剣に釘を刺してきたと思ったら、室長の意識はまた雨に奪われていた。
心の奥から、ざわざわした感情がせり上がってくる。
まるで、隣に立っているのに、オレにはまだそんな資格はないと言われているようで。
はじめてだ。
雨に、嫉妬するなんて。
信号が、青に変わった。
人の波に紛れるように、室長の背中が遠ざかっていく。
「神崎室長!」
真っ直ぐに伸びた白い背中が振り返る。
オレは、肺を湿った空気で満たした。
そしてーー
「オレ、頑張ります!」
アーモンド型の目が、素早く瞬く。
「一生懸命頑張りますから!」
「……」
「また、室長と一緒に働けるように!」
横断歩道の真ん中で叫ぶオレを、行き交う人たちが面倒くさそうに避けていく。
神崎室長は、もう一度空を見上げてから、ゆっくりと視線をオレに戻した。
そして、
「うん、頑張れ」
きれいに、笑った。
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