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序章
人が人を殺める理由は何であろう。私欲か、保身か、弔いか、あるいは快楽か。
時は享保。肥後の若き大名、深山景虎は一年に渡る江戸への参勤を終え、明日故郷へと発つ。天下太平の江戸の街に名残惜しさを感じながら酒を口にした。江戸で出会った剣豪・頼平と義兄弟の契りを交わすためである。景虎は剣術に優れ、領地で傍若無人に振る舞う山賊らを元服前から討伐していた。戦国の世であれば、天下統一を成し遂げていたであろうと国中の武士が景虎を崇めた。天下に敵なしと自負した景虎は江戸で自らに匹敵する剣術の達人に邂逅した。彼らは互いに認め合い、やがて好敵手となった。
盃を交わし、晴れて義兄弟となった彼らは、武士としての心構えについて語り合った。つい先刻、流浪人が死罪となったことと絡めて、人の命を奪うとはいかなることか、魂とは何かを熱く語った。流浪人は齢九つの醤油屋の丁稚を河原の大石で殴り殺した罪で処された。鈍臭い丁稚であったが、天真爛漫な様が町人に愛された幼子であった。太平の世に似つかわしくない惨たらしい事件に、戦慄が走った。斬首は高岡実吉の手によって行われた。先代の御様御用、吉左衛門久豊の実弟に試刀術の才がなく、江戸における処刑は久豊の弟子らが引き継いだ。実吉はその一人であった。実吉はなんとも不気味な雰囲気を身に纏っていた。流浪人は大層喚いて抵抗したが、実吉は躊躇なく首を落としたと言う。
頼平は流浪人に強く憤った。そして、弱きを助け強きをくじいたかつての武将の名を列挙し、武士たるもの誇り高く生きるべきだと力説した。頼平は歴史に明るかった。京の都からも江戸からも遥か離れた田舎の出自である景虎は学がなく、名だたる武将らの名を知らなかった。景虎は頼平をいっそう敬った。
「さすが兄者は学がある」
「寺子屋の時分に聡い友がいたんでさぁ。彼に教えてもらったんでい」
謙遜するかのように答えた頼平は昔を懐かしんだ。
「あいつみたいな頭の切れる兄でもいりゃあ、血を分けた兄弟もあと幾分か一族のために力を合わせることもできたんだがなあ」
頼平は実の兄弟と折り合いが悪い。
「拙者では力不足か?」
「いや、景虎はこの上なく誇らしい義弟だ」
「ありがたき幸せ」
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