残り香のゆくえ

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 昼休みになると二学年上の兄である、弘が教室に現れた。  二人は母から昼食代をそれぞれ渡されていたのだが、数週間前に弘が財布を失くして以来、二人分の金を貴久が預かっていた。財布を渡して弘が二人分のパンを買いに行くというのが流れになっていた。 「今日何にする?」 「弘と同じのでいいよ」そう言って、財布を弘に手渡す。  貴久は兄の事を名前で呼ぶのが当たり前になっていた。物心がついた時にはすでに弘と呼んでいたからその名残だ。昔から兄弟喧嘩というものをしたことがなかった。兄というより友達に近い関係なのかもしれない。  弘が教室を出て行ってから、しばらくして貴久はカードの存在を思い出した。しまった。  昨夜、弘に自慢したカードとは別の香りがするカードが財布に入っている。  言い訳を考えるも思い付かず無為に時間だけが過ぎていった。 「貴久」  不意に自分を呼ぶ声がした。いつのまにか弘が戻って来ていた。 「今日は貴久の好きなチョココロネがあったぞ」  貴久の考えを余所に、弘は嬉しそうな顔でいくつかのパンと財布を寄越した。弘の方のパンを見遣ると、チョココロネはないようだった。同じのでいいと言ったのに、好みのパンを別で買ってくるところに弘の優しさを垣間見た。  礼を言い受け取ると、弘はそのまま教室を後にした。  香りには気付かなかったのだろうか。そもそも弘には興味のない事だろうから、自分の取越し苦労だったのかもしれない。  貴久は、安堵し、もらったチョココロネをしばらく眺めていた。 「貴久くん、今日もパンなの?」  真紀が机の上を覗き込む。 「パン好きだから」 「ふうん。あっ、チョココロネだ。 ねえねえ一口ちょうだい?」  チョココロネは真紀の大好物だ。弘は貴久の好物だと勘違いしていたが、本当は真紀の好物だった。チョココロネを買うと、真紀が決まって食い付くから、貴久はそれが嬉しくて買っていた。  いつも通り、チョココロネを一口サイズに千切って渡す。 「今日は何がいい? ちなみに今日の卵焼きは自信作だよ」  お返しに真紀は自分で作った弁当をこちらに寄越した。 「おいしい。 真紀ちゃんは本当に料理が上手だね」  えへへ、と恥ずかしそうに照れる真紀が本当に可愛い、と貴久は思う。 「私ね、お父さんみたいな料理人になりたいの」 「なれるよ絶対」 「お父さんね、私が料理を作ってる時、私の事シェフって呼ぶんだ」 「そうなんだ」 「始めは、ただふざけて呼んでるだけだと思ってたんだけど違うみたい」 「ん?」 「シェフって呼び続ける事で、いつか本当の料理人になれるように。なんだって」  貴久は意味がわからないというように、首を傾げて、続きを促した。 「いまは偽りでも、言い続ければいつか本当になるんだって。 言霊って知ってる?」 「聞いたことくらいは」 「願いは言葉にした方が叶うって言われてるのと同じで、私の事をシェフって呼ぶことで、願を掛けてるんだってさ」 「そうなんだ。 じゃあ、おれもいつかなりたいものが見つかったらそうしようかな」 「うん。私が呼んであげるね。大統領って」 「そんな野望はないよ」  
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