残り香のゆくえ

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 全てを聞いた陽子の目にはうっすらと涙が溜まっているように見えた。貴久は、弘がいない間に、親戚の噂話を聞いてしまった事を陽子に打ち明けた。  弘もこの事を知っているかもしれないといことを、財布の件は話さずに伝えた。  黙って聞いていた陽子が口を開いた。 「貴久、大人になったね」  貴久は何のことかわからずに曖昧に返事を返す。 「本当はね、いつか話さないとってずっと思ってたの。あなたが大人になったらって」 「でも聞いちゃったから」 「そうね。もう、隠してても仕方ないもんね。ショックを受けないで聞いてほしいの……と言ってもそんなの無理よね。でも、私達三人はどんなことがあっても家族なんだって事だけはわかっていて?」 ーーどんな事があっても家族……。  陽子の口から出た言葉に違和感を覚えながらも貴久は曖昧に返事をした。  貴久の覚悟が陽子にも伝わったのか、陽子もまた覚悟を決めた様子だった。おもむろに口を開いた。 「あなたたち兄弟に血の繋がりはないの」  どういうことだ。貴久の頭の中でグルグルと思考が渦巻いている。弘とは母親こそ違うが、父の血が二人には流れているはずだった。  勘違い……。何か思い違いをしているのか。そしておそらくそれは自分の方なのだと、貴久は直感で理解した。 「それに……」  陽子は涙を流しながら懸命に話を続けようとしていた。息を整えながら、陽子は続けた。 「あなたと私にも血の繋がりはないの」 「……っ?」  声が出ない。思い掛けない陽子の告白に、貴久の頭はおかしくなりそうだった。  それは……どういう……? つまり自分が赤の他人……? なんで……? どうして……? 頭の中に様々な疑問が浮かんでは、声になる前に消えていく。 「あなたはお父さんと、お父さんの前の奥さんとの間に産まれた子なの」  まさか……。そんな……。引き取られたのは自分の方だったのか……。 「ひっひろ、弘は……?」  貴久は泣き崩れそうになりながら、かろうじてそれだけ言った。 「弘は……弘は、私と、前の夫の間に産まれた子なの。私とお父さんはね、子持ち同士で結婚したの。でも、私達の子ができる前にお父さんが死んじゃって……」  陽子は涙を止めるのを諦めたようで、大粒の涙を流しながら懸命に言葉を繋ぐ。 「ごめんね……。ごめんなさい。今まで隠していて。 でも、血の繋がりなんて大したことじゃないのよ? 私はあなたのことを本当の息子だって思ってる」  貴久の目から涙が溢れる。止める術はなかった。 「うん、わかってる……」 消え入りそうな声をなんとか言葉にして貴久が答える。 「本当だからね」  貴久は陽子に抱き寄せられた。恥ずかしいという感情も、振り解く力もなく、ただただそれを受け入れた。  しばらくの間、二人は涙を止めることに時間を費やした。どれくらいの時間そうしていただろう、陽子の母としての温もりを貴久は確かにその身体に、心に感じていた。  貴久は、小さく洟を啜り上げて陽子に問い掛けた。 「ねえ、お母さん。弘はこの事、知ってるのかな?」 「弘は全部知ってるよ。あの子は、あなたのお母さんにもよく遊んでもらってたからね」 「どういうこと?」 「あなたを産んだ人は、私のお友達だったのよ。 だから時々、世話を焼いてくれてたの」 「そうなんだ」 「貴久。あなた、財布の事、本当は知ってるんでしょう?」 「なんで、お母さんがそれを?」 「弘に聞いたの。 貴久の財布を隠したから、新しいのを買ってやってくれって」 「それ、理由も知ってる?」  全ての真実を聞いてなおわからないことが一つだけあった。いや、真実を聞いたからこそわからなくなった。  弘が財布を埋めた理由。  貴久は弘の疎外感からくる怒りがそうさせたと思っていた。でも、血の繋がりがないのは、自分だったのだからその推測は全くの見当外れだ。 「知ってるよ。全部聞いたから」 「……教えて」 陽子は少し躊躇った後、溜息を一つ吐いてから、ゆっくりとその理由を貴久に告げた。 「あなたと私達に血の繋がりがない事を、あなたに知られたくなかったんだって」 「それが財布とどういう関係があるの?」 「匂い」 「匂い?」 「カードに染み込んだ匂いが、あなたのお母さんがよくつけてた香水の匂いと同じだったの。だからその匂いを嗅いだら母親の事を思い出して、本当の事を知っちゃうんじゃないかって思ったんだって」 「じゃあ、おれのためにやったの?」 「当たり前でしょう? 弘があなたに嫌がらせをした事なんてあった?」 「……ない」 「最初はカードだけ抜くつもりだったけど、財布に匂いが染み込んでたから仕方なかったんだって。それで、自分の財布を買う為に貯めてたお金で貴久に新しい財布を買ってあげてほしいって」 「弘が自分のお金で……?」  陽子は小さく頷いた。  貴久は居てもたっても居られなくなって、慌ただしく家を飛び出した。
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