残り香のゆくえ

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 貴久は教室を出ると、その日、自分が訪れた場所を思い出しながら、失くした財布を探し回った。  真紀から今朝、貰ったばかりの大切なカードを財布と一緒に失くしてしまったのだ。  貴久は朝からの行動を一つ一つ思い返した。 「おはよう貴久くん。CD買った?」  教室に入ると、挨拶もそこそこに真紀が目を輝かせながら話し掛けてくる。 「もちろん」  真紀との唯一の共通話題であるロックバンドのCD発売日が昨日だった。 「誰のが当たったの?」 「ボーカルの尾崎さん」 「いいな! 私はベースの人だったんだ」  落胆とまではいかないが、真紀の表情から目当てでないことが窺い知れた。 「ほら、これだよ」  真紀からカードを受け取ると、何とも言えない甘い香りがした。どこか懐かしいような、そんな気がした。貴久は確かにこの香りを何処かで嗅いだ事があるように思えた。 「貴久くんのも、見せてよ」  真紀の声に、慌てて鞄を探る。 「わあ。これが尾崎さんの好きな香りか」  真紀は目を瞑って、鼻で息を思いきり吸い込む。まるでカードに染み込んだ香りを独り占めするかのように。  今回のCDの特典は、シングル曲のタイトル【残り香】にちなんだ、メンバーそれぞれの好きな香りを染み込ませたカードだ。 「欲しいならあげるよ」 「えっ? どうして? 貴久くんいらないの?」 「おれはこのバンドの曲が好きなだけで、匂いとかはどうでもいいから」  嘘をつくときの緊張感を貴久はどうしても拭えない。特にそれが相手の為を思って吐いた嘘ならなおさらだった。 「ほんとに? いいの?」  もうすでに自分の物のように、小さなカードを胸元で、大げさに抱きしめていた。 「大切にするね。肌身離さず持ち歩くよ」  満面の笑みでそう言った真紀を見るだけで、貴久は幸せな気持ちになった。  代わりにと真紀は自分のカードをこちらに差し出した。  カードを財布に仕舞う時、もう一度懐かしい香りが鼻腔を刺激した。貴久はどうしてもその香りを思い出す事ができなかった。 「プルースト効果って知ってる?」 「何それ?」言いながら貴久は財布を鞄の中に仕舞った。 「簡単に言うと、匂いで何かを思い出す事を言うんだけどね。 んー、例えば、カレーの匂いを嗅ぐと、小さい頃の記憶を思い出したりすることあるでしょ? それと同じでね、匂いだけじゃなくて音楽にもそんな効果があるんだって」 「言われてみれば確かに」 「でしょ? だからね、私達が何年後か、何十年後かわからないけど、大人になった時にこの曲を聴いたり、この匂いを嗅ぐと今の事を思い出すんだよ? なんか素敵じゃない?」  始業ベルが鳴って、二人の会話が突然途切れた。 財布をもう一度確認する。カードはその香りを財布にも移したようで、カードを出さずともその甘い香りを確認する事ができた。  忘れないよ、と貴久は心の中で呟いた。  
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