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声は冷淡に響いた。病室で聞いたのと同じ声質だった。
本心から問いかけている。知らない振りをしているとは思えなかった。
すぐにでも逃げ出せるように身構えている。病室で出会った水沢遙香の、激しい敵愾心からくる態度とは違った。
初対面——しかも異性に対し、脅威の対象と感じての警戒だと気づく。
意外な反応を食らって、梶山も水沢遙香を眺めるしかなかったようだった。
目の前に立つ男ふたりに不審に満ちた一瞥をくれると、水沢遙香はいらだちを顔に貼りつけたまま、早足で遠ざかっていく。
けっして振り向かない。
その後ろ姿を見やり、梶山はあきらめたように言った。
「どうやら嫌われたみたいだ」
さほど傷ついたようすはなさそうだった。こちらを見て、苦く笑う。「彼女にとって、俺の記憶は不要になったのかな」
修哉には奇妙な違和感が残った。
「……そういうもんか? あんなことがあって、そう簡単に忘れられるわけないだろ?」
梶山は曖昧に、うーん、と唸った。眉のあたりを掻いている。
「覚えていても知らないふりをされるなら、その気持ちを尊重したほうが後腐れが無いだろうしさ」
「梶山、おまえ……」
水沢遙香が人混みに紛れた方角を眺め、残りの言葉を飲み込む。
まったく——お人好しにも程がある。続ける言葉を呼吸に変えて、小さく漏らす。
梶山は、水沢遙香が消えたのと逆方向へと歩き始めた。その顔には晴れやかな笑顔がある。
やけにあっさりと気持ちを切り替えたかのように見えた。
いいんだよ、と独り言のような調子で梶山は続けた。
「俺は、彼女が嫌な思いをしてなけりゃそれでいいんだ」
*
映画の後はふだんと変わりなく会話して、食事して雑多な店が並ぶ街をぶらついた。翌日の予定も考えて早めに切り上げることにし、電車で地元まで戻ってきた。
結局、梶山は水沢遙香について多くを語らなかった。彼女を責める言葉はひとつも漏らさない。
反射神経が鈍ったのかな、と梶山は苦笑した。まさか真っ昼間に歩きながら居眠りでもしてたわけでもあるまいし、あんな無様な落ちかたをするなんてな。
「俺の不注意だったんだ」
梶山は言った。「彼女には迷惑をかけたよ」
無理に訊き出すのはよくない気がして、あえて修哉も梶山が話す事情だけを黙って聞いていた。
改札を出たところで梶山が立ち止まる。スマートフォンの通知を確認している。
見慣れた駅の風景はどこか安心する。同時に帰宅するだけとなり、早くも一日の終わりを実感して名残惜しい気持ちも入り混じる。
最近は日も短くなって、暗くなる時刻も早まっている。日中は日差しも強く、いまだに酷暑が続く。それでもすこしずつ季節は移り変わる。どこか遠くでヒグラシの声が繰り返すのが聞こえる。晩夏の夕暮れ時のもの悲しさが漂う。
日が傾いて夕焼け空が広がる。
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