第五章(3)…… 特技

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「せめてものの恩情だったのか、引っ越し猶予のつもりだったのかわからないけど、とりあえず二ヶ月間のアパート代は支払ってあってそこで暮らせたんだけどね。その後は毎月の家賃が払いきれなくなっちゃった。しかたなく全部処分してアパートは引き払った」  ずっと母と暮らしてた荷物も思い出も全部。そうつぶやくように言った真咲の顔には、なんとも言えない不思議な笑みが浮いていた。  おそらく真咲は、無理にでも気持ちに折り合いをつけたかったのかもしれない。  捨てられたわけじゃない。こっちから見切りをつけたのだ、と言いたげにも聞こえた。 「夜のバイトをしながら昼間は時間を潰せる場所で仮眠を取って、貯めてた預金でなんとかやってたんだけど、大学の学費が払えない額でどうしようもなくなっちゃって」  感情がね、と言って、いつのまにか自分の声が大きくなっているのに気づいて声をひそめた。 「遙香は、幼い頃から感情を押し殺して生きてきた。だから、自分の内側に最大限に膨れ上がった、世のなかの矛盾に対する凄い怒りと湧き上がる殺意の行き先を、どうやって処理すればいいかわからなかったんだ。僕はその役割を与えられなかったから、どうしようもなかった。あまりに激しい心の反応に、遙香は耐えきれなかった。結果、遙香は持て余した感情を、完全に自分から切り離す選択をしてしまったんだ」  真咲が大きな吐息を漏らす。「そのせいで遙香の中に、もうひとりの妹が新たに生まれた」  僕には止められなかった。そう真咲は言った。つらそうな表情になる。 「厭な思いは、もうひとりの自分に全部押しつけた」  可哀想な妹、とつぶやく。 「遙香は、あの子にユキホと名づけた」  ふいに真咲は泣きそうな顔で笑った。「どんな字を書くと思う?」  訊ねられても、答えようがない。黙っていると、真咲はテーブルの上に右手の人差し指を滑らせ、ゆっくりと透明な漢字をふたつ並べた。  幸、そして歩。 「幸せに歩む、と書くんだ」  せめてもの願いだったかもしれない、と真咲はこぼした。 「——だけどさ」  右手の人差し指は、ぎゅっと握られて、(こぶし)にしまわれる。うつむいた真咲の表情は見えない。 「なかなかに毒の効いた冗談だと思わない? 僕にしたってそうだ。最初から僕を……男として切り離した。遙香はね、けっして受け入れられないものに、相容れない条件を与えたんだ」  せめてもの反論、もしくは最後の抵抗とでも言えば聞こえはいいかもしれない。  だが、冗談にしては容赦がない。明らかな悪意が滲む。そう感じた。
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